日本・女優 & 日本・男優 より
1931年の創設以来、日本演劇界に特異な軌跡を描いた前進座による色紙寄せ書き。中央上に宛名(「呈 宮下賢二郎様」)が置かれ、その周囲に配された英文メッセージを取り囲むように計23名の署名が残されています。色紙に日付は残されておりませんが、後述の理由から1940年代中盤と思われます。
慢性的な経営難に悩まされていた初期前進座にとって映画出演は無視できない収入源であり、また普段劇場に足を運ばない層に技芸を披露する機会でもありました。同座による映画出演は当初の日活からPCL、東宝へそして戦後の新星映画と拠点を移していき、とりわけ日活後期~PCL期に深い縁のあった山中貞雄監督との諸作は現在でも高く評価されています。
寄書きは『人情紙風船』(1937年)からまだ10年も経たない時期のもので、同作に出演していた俳優の名が多く見られます。


河原崎長十郎 [海野又十郎]


中村翫右衛門 [髪結新三]


坂東調右衛門 [按摩籔市]


嵐芳三郎 [白子屋久兵衛]


瀬川菊之丞 [忠七]
前進座の原動力となった「長・翫」こと河原崎長十郎、中村翫右衛門の名はそれぞれ色紙の左右の上の目立つ位置に置かれており、個性の強い二人を結びつける、あるいは取り成すように嵐芳三郎が合間を埋めています。さらに両者を左右から支えるように瀬川菊之丞と坂東調右衛門が名を連ねており、一座内の力関係が配置からもはっきり伝わる形になっていました。


橘小三郎 [毛利三左衛門]


中村進五郎 [夜そば屋の甚七]


市川扇升 [長松]
色紙の下半分には15名の名前が並んでいます。この中には憎々しい毛利三左衛門を演じた橘小三郎、お茶目で愛嬌のあるそば屋・甚七を演じた中村進五郎、小山内薫氏の子息である市川扇升(丁稚の長松役)のサインが含まれています。
中村進五郎、山崎島二郎、市川岩五郎は初期養成所から育った前進座役者である。
この養成所からはその後、中村文吾、瀬川多門、生島喜五郎と女優の津田毬子、戸田千代子、小島公恵、川路夏子などが、そして二世座員として子供劇場からは中村喜三造、市川洋之助、三井康子、橘弘子、中村梅之助、坂東精一郎、町田栄子などが生長してきている。
『不安と反抗』
中村哲
(法政大学出版局、がくえん新書、1954年)
1930年代末~40年代初頭にかけて前進座に加わった役者のうち「津田毬子、戸田千代子、小島公恵、川路夏子」の4名は今回の色紙に名前を連ねています。この中で川路夏子さんは詩人・川路柳虹の娘に当たり、1943年から48年にかけて前進座に所属していたのが分かっています。先に名の上がった市川扇升も1948年に早世。このため終戦の直前から直後、1943~1948年に作成された寄せ書きだと断定することが出来ます。
さらに色紙の下半分には俳優ではない人物のサインが数点含まれています。サイトの趣旨から外れるのですが、寄書きの発生経緯を理解するヒントとなりそうなので触れておきます。



色紙の中央部、そして右下には劇団員とは異なった色のインクの万年筆で「布施辰治」「望月辰太郎」のサインが残されています。布施辰治氏は大正初期から刑事事件を専門に活動していた著名な弁護士で、労働農民党や日本共産党と深いつながりのあった人物です。一方の望月辰太郎氏は大正末期に差別社を組織したアナーキスト。布施辰治氏とも親交を持っていました。望月辰太郎は1946年に布施氏等と共著を刊行しようとしていた記録が残っています。
円状に書かれた英語の文章(望月氏の手によると思われる茶色がかったインクの一文)は、通常の役者の寄書きとはおよそ異質な闘争の響きを帯びたものです。1949年(昭和24年)には前進座の俳優が一斉に日本共産党への入党届を提出し人々を驚かせるのですが、ある朝ふと思い立って届をしたため…という話ではない訳で、予兆となる細かな動きが積み重ねられていたと分かります。
[IMDb]
Humanity and Paper Balloons
[JMDb]
人情紙風船

