フィルム館・9.5ミリ (英パテスコープ) & 映画史の館・フランスより
1931〜32年に行われた仏遠征隊によるユーラシア大陸踏破を記録したドキュメンタリー映画。当時の自動車王の一人、アンドレ・シトロエンがスポンサーとなった大掛かりな遠征の第3弾に当たるもので、かつてマルコ・ポーロのたどった道筋をシトロエン社の車を使って短期間で踏破せんとする壮大な試みでした。
仏蘭西の名畫獲得によつて最近目覺ましい活躍ぶりを示してゐる三映社では、今度パテー・ナタン制作の記録映畫「アジア大陸横斷」の本邦配給權を獲得した。
此の映畫は監督アンドレ・ソオヴアジユ、撮影スベヒト・モリゼ、編輯レオン・ポワリエで、一九三一年G・M・ハール氏を隊長として自動車十四臺による探検隊を組織し、シリアを發しペルシア、アフガニスタン、印度、新彊、南蒙古より遂に三三年北京に入るまでの全踏破行程五千キロメートルに及びその間人跡未踏のゴビ沙漠、四千五百メートルのヒヤマラ山突破に至るまでの東洋奥地の實状を紹介せる記録映畫である。
記録映画「アジヤ大陸横斷」 三映社の手で配給
『キネマ週報』1935年4月19日 第236号
9.5ミリ版は5巻構成。オリジナルサウンド版の97分に対し、9.5ミリ版はサイレント版ながらも70分弱と主要部をほぼカバーしています。
第1巻:プロローグ&ベイルートからテヘランへ
第2巻:ヘラートからシュリーナガルへ
第3巻:ヒマラヤ越え
第4巻:中国横断
第5巻:北京からハノイへ
遠征隊の辿ったルートは上図の通り。現在の国境区分に従うならレバノン、シリア、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタンおよびインド、中国、ベトナムと9か国を跨いでいきます。
この道筋は、当時の不安定な国際情勢に影響を受けた紆余曲折の産物でした。当初はヒマラヤの北を迂回、トルクメニスタン経由で北京に向かい、その後海路を経てインドネシア~インドを通過しフランスに戻ってくるルートが予定されていたのです。しかしながらソ連との交渉が難航し、当初与えられていた通行許可が取り消されてしまったためルート変更を余儀なくされました。
最終的に遠征隊を二手(パミール隊&中国隊)に分けます。ジョルジュ・マリ・アールト隊長とオードゥアン・デュブルイユ副隊長に率いられたパミール隊はベイルートを出発後東に向かい、ヒマラヤを越える形に。過酷な行程が予想されるため、ヒマラヤを越えた後に資材や食料類などを補給するため、中国隊が北京から西に向かい新彊で合流する手はずとなっていました。
1931年(昭和6年)4月4日、笛による号令と共に遠征隊がベイルートを出発。パミール隊を構成していたのは次の7台の車でした。
1)司令車(アールト隊長を中心とした指令系統を司る一台)
2)科学車(考古学・地学など様々な学問研究に対応した一台)
3)撮影関連車1(映画撮影用のスタッフが乗りあわせた一台)
4)撮影関連車2(映画撮影用の機材を積載)
5)無電車(無線連絡用の装備あり)
6)食堂車(遠征中の飲食を担当)
7)医療車(怪我や病気に対応)
砂漠や砂利道、雪道など悪路を想定し、後輪にキャタピラを履かせたシトロエン社特製車です。ヒマラヤ越えを念頭に置き、手動で分解~組み立てができる構造になっていました。分解した車両を地元の苦力(クーリー)が運んで行く様子を映画中に見ることができます。
パミール隊は1931年(昭和6年)の4月4日にベイルートを出発。数々の苦難を経ながら7ヶ月後、10月27日にウルムチで中国隊と合流。さらに東進し出立から315日目の1932年(昭和7年)2月12日に北京に到達しました。先に触れたように、本来は海路を使ってインドネシア~インド経由でフランスに戻ってくる予定でした。しかしながら北京到着後にアールト隊長が体調を崩し、療養のために運ばれた香港で3月16日に客死。遠征隊の精神的支柱アールトの訃報を聞き、アンドレ・シトロエンはプロジェクトの停止を決断。アールトの亡骸とともに遠征隊は船を使ってフランスに向かい、4月29日に南仏マルセイユに帰還した…が大きな流れとなっています。
◇◇◇
映画版『アジア大陸横断』(1934年)は、パミール隊一員として遠征に同行した映画監督アンドレ・ソーヴァージュによる記録映像をまとめたものです。日本では三映社が配給権を獲得し1935年に公開されました。
此處に現はれる場面は、總て眞正眞銘の寫眞であつて、決して嘘や作りものが混つてはゐない。だからこの映畫は、その中のどの畫面からでも、アジア大陸の土の香りが漂ひ出てゐて、ひどく親しみを覺えさえ、一入魅力を感じさせるのである。
キネマ週報 1935年10月 通巻255号(キネマ週報社)
日本での反応は概ね好評、今村太平氏による『記録映画論』(1940年、第一芸文社)では「あらゆるメロドラマを集めたよりも社會的に有益」と評されていました。『アジア大陸横断』の特徴として異業種からの反応が多かった点が挙げられます。例えば 『山岳講座 第四巻』(1936年2月)や「山小屋」(1936年3月号)といった山岳関連書籍・雑誌で言及される一方、「国際評論」誌(1936年4月号)のように国際情勢、とくにアジア情勢の視点で紹介される機会もありました。普段劇映画を見ているのとは違った層にアピールできたのが強みだったのかなと思います。
[…] パテー・ナタン社の「アジア大陸横斷」の試寫を見ず、何とか自動車の宣傳映畫だと云ふ人もあるが、兎に角記録映畫として立派なものである、と云ふ事だ。
「老フアン日記」
立花高四郎
キネマ週報 1935年11月 通巻256号(キネマ週報社)
『アジア大陸横斷』といふ映畫は、フランスのアジア政策のデモンストレーシヨンとも見るべきものでフランス映畫としては特殊なものである。
「映畫と國際問題」
植村鷹千代
「国際評論」 1936年4月号(日本外事協会)
一方、純粋なドキュメンタリー映画ではないという指摘も当初から残されていました。
実際、この遠征の原点となったのはシトロエン社の技術力、資金力を証明したいというアンドレ・シトロエン氏の強い意志でした。また原題「La Croisière jaune」に「黄色の、黄色人種の」(≒アジアの)を意味する「jaune」が含まれていることから分かるように「白人の(厳密に言うならフランス人の)叡智や技術によって未開のアジアを踏破していく」が基本の物語であって、人種差別主義や植民地主義も多分に含まれています。同時期に公開された『オリンピア/民族の祭典』等と同様、宣伝映画・プロパガンダ映画の側面も備えているのです。




そういった時代特有のイデオロギーの要素を差し引いてみても『アジア大陸横断』は十分見ごたえのある作品でした。貴重な映像、美しい映像が多く含まれているだけでなく、自分が知っていたはずの「アジア」を立ち超えていくスリリングな瞬間が幾度もあったのです。とは言え現存する映画版は画面上で映える映像を中心にまとめられており、字幕や音声による補足も十分とは言えません。
1)『アジア大陸横断』(ジョルジュ・ルフェーヴル、プロン社、1933年)公式書籍版
2)『亞細亞大陸横断記: ベイルートより北京へ』(ヂョルヂュ・ル・フェーヴル、大和書店、1941年)
3)『アジア大陸横断:オードゥアン・デュブルイユ副隊長の道中記』(1992年、ラルバロン出版社)
4)『もうひとつのアジア大陸横断』(アンドレ・ソーヴァージュ、2022年ブルーレイ『アジア大陸横断』特典、カルロッタ社)
今回、上記の4種類の資料を組みあわせながら遠征隊の辿った行程と彼らの経験した「アジア」を再構成していきます。
[IMDb]
La croisière jaune
[Movie Walker]
アジア大陸横断















