1934 – 9.5mm 『アジア大陸横断』第1リール 「プロローグ&ベイルートからテヘランへ」 レバノン~シリア~イラク~イラン

フィルム館・9.5ミリ (英パテスコープ) & 映画史の館・フランスより

In the Footsteps of Marco Polo
(“La Croisière jaune”, 1934, Pathé-Natan,
dir/ André Sauvage & Léon Poirier)
Prologue & 1st reel “From Beirut to Tehran”

プロローグ

『アジア大陸横断』のオリジナル版(97分)には冒頭約6分のイントロダクションが置かれていました。スポンサーであるアンドレ・シトロエン氏の紹介、以前の2度のアフリカ遠征の映像、ルート決定までの紆余曲折、遠征隊メンバー紹介、さらにベイルートまでの船旅と港での車両の積み下ろし作業をまとめた映像です。9.5ミリ版はこの部分を大幅に削除、地図でのルート説明と主要メンバーの紹介に内容を絞っています。

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第一章:ベイルートからテヘランへ(From Beirut to Tehran)

ビル・ハサン [Bir Hassan] – クラック・デ・シュヴァリエ [Krak des Chevaliers] – ダマスカス [Damascus] – パルミラ遺跡 [Ruins of Palmyra] – ラマーディー [Ramadi] – バグダード [Baghdad] – カスレ=シーリーン [Qasr-e Shirin] – ケルマーンシャー [Kermanshah] – ハマダーン [Hamadān] – テヘラン [Tehran] – ダームガーン [Dāmghān] – ネイシャーブル [Neishaboor] – マシュハド [Mashad]

「全員乗車」吾々は出發した。そして澄んだ朝の空氣をついて、七臺のエンヂンの音が宛も飛行隊のやうに響き渡った。

『亞細亞大陸横断記: ベイルートより北京へ』
(ヂョルヂュ・ル・フェーヴル、大和書店、1941年)
19頁

1931年(昭和6年)3月末、ベイルートの市街地からやや離れた海岸近く(ビル・ハサン)で隊員たちが準備を始めました。隊長アールトの到着を待って4月4日、笛の合図とともに遠征が始まります。

ベイルートの東、レバノン中央部には3000メートル級の山々がそびえるレバノン山脈があるため、遠征隊の一部は直接東には向かわず、一旦は北に向かって山脈を迂回してシリアに入っていきます。国境を越えるとすぐ、聖ヨハネ騎士団の拠点ともなった「騎士の城(クラック・デ・シュヴァリエ)」という石造りの古城が残されていて、城には遠征隊を一目見ようと多くの住民たちが集まっていました。

吾々はポプラの並木路を進んだ。やがて、豊富な井戸から灌漑される數千エーカーの地面に植えられた杏、無花果及びオリーブの果樹園の中を通過した。果樹園といふよりは寧ろ森といつた感じであつた。突然樹間からダマスクス-廣漠たる砂漠の縁につながる大きなオアシスの町の長尖塔、圓屋根及びドームが見えた。(21頁)

遠征隊はダマスカスを経由して北東に進路を取り、シリア中部のパルミラ遺跡周辺で野営します。到着が夜だったそうで、一夜明けた後、目の前に壮麗な古代廃墟が広がっている光景に驚かされたそうです。

パルミラからの途上で遭遇したベドウィン人たち。

バグダード唯一の新しい目貫通りで羊がまるまると焙られるのを見た。アーケードの下には兩替小屋が立ち並んでゐた。河岸の通りを人間の流れ-ベドウイン人、クルト人、ヒンダス人、シリア人、アッシリア人、イラーク人等で、殊にイラーク人は容易に見別けがつかなかつた-がひつきりなしに續いてゐた。(39頁)

国境を越えイラクへと入り、5月16日に首都バグダード到着。モスクと尖塔が立ち並ぶ千夜一夜物語さながらの世界に魅了されると同時に、カメラは市場や路地で展開されている市民生活の慎ましい一面を記録していきます。

3日間のバグダッド滞在後、イラクを離れイラン(当時はまだペルシャの国名でした)へ。沙漠の続いていた風景に変化が現れ、岩による凹凸の大きな地形が目立つようになってきます。「証人」と名付けられた奇岩群の立ち並ぶ渓谷を抜け、遊牧の民クルド、羊飼いを生業とするリスタ人とすれ違っていきます。

[…] 四月二十八日、探險隊は二臺の陸軍機に護られつゝ、熱狂した群衆の歡呼裡にテヘランへ入った。(57頁)

この式 [キヤノン宮での祝日の祭典] がすんでから、ソーヴァーヂュ、ヂョルダン及びイアコフレフはまだ眞のペルシヤが見られるテヘランの古い一劃へ散歩に出かけた。この南の郊外に於て、吾々を最も樂しませたものは、商店の外で風にひらめく藍色の織物の鮮やかな色彩であつた。こゝで吾々は、毛織を染めて絨毯を造る作業や、緑の頭巾を被つた回教僧が、隣村から驢馬に乗つて來て大麥や麥粉を買ふ光景や、アイスクリームの賣子が古いセダン椅子に腰掛けている光景を見ることが出來た。(59-60頁)

イランでの歓迎は熱烈であった、と伝えられています。パフラヴィー朝ペルシャの設立(1925年)から間もない時期、国王レザー・パフラヴィーの下で急速な近代化・西欧化が進められていたタイミングで、フランスからの、しかも撮影機を伴った遠征隊の訪れは自国の進歩と豊かさをアピールする絶好の機会でもありました。

音楽隊による伝統音楽の披露の様子

映画版では皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィー(後のパフラヴィー2世)が遠征隊を迎えてフランス語でやり取りをしている様子、さらに皇太子がアールト隊長と共にシトロエン車に同乗してテヘラン市内を回る様子などが収められています。

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第1リールに収められた風景は出発から最初の1か月に収録されたものです。遠征隊に余裕があり、異国情緒豊かなイスラム文化の絢爛を満喫している様子は動画からも伝わってきます。

映画版を担当したアンドレ・ソーヴァージュは道中ですれ違った多くの市民たちを映像に収めていきます。カメラへの警戒感があったり、照れた表情を浮かべていたり、無防備に満面の笑顔を浮かべていたりと反応は様々ながらいずれも素敵な雰囲気。概観で触れたように本作には根深い白人至上主義が見え隠れてしているのですが、ソーヴァージュはそういった価値観と距離を置いていて「綺麗だな」とか「面白い」「珍しい」と直感的に判断すると無条件でカメラを回し始めます。

被写体に対する上から目線がなく映像は温かみを帯びています。「この映畫は、その中のどの畫面からでも、アジア大陸の土の香りが漂ひ出てゐて、ひどく親しみを覺えさえ」るという反応が当時の日本からも聞こえたのは監督の力量が大きいと言えます。一方でそれは作品のコンセプトに抵触する話でもあり、シトロエンの不興を買ったソーヴァージュが最終編集中にクビにされる事態にもつながっていくのです。

メシェドでは、古い思想のペルシヤ人が、現代主義の進行に對し最後の反抗を示してゐた。併しこゝでさへ、政府は絶えず改革綱領を實行するのであつた。テヘランと同樣、新しい廣い街路が町を貫き、古い宮殿は破壊されるのであつた。墓石取外しの命令が平氣で發せられ、その石は大寺院に至る街路舗装に用ひられてゐた。(63頁)

『アジア大陸横断』第1巻で記録されていたのは豊かさと貧しさ、伝統と進歩がせめぎ合う中で生活習慣、価値観、宗教観を違えた人々が密に生活を送っている中近東の姿でした。不満が溜まり、軋轢や争いの発生しやすい不安定な社会構造は見えやすいところです。それでも自分と異なった人々を力で排除していくまでの空気感はありません。

遠征隊の訪れから90年。パルミラ遺跡はISによって一部破壊され、クルドの民は一部が難民化、一部が武装勢力(PKK)化、イランは隣国イラク、欧米の支持を受けたイスラエルと軍事衝突を繰り返していく…沿道の人々から歓声を受けつつ、ブドウや罌粟(けし)畑が連なる道をキャタピラ車が駆け抜けていった時、この土地が憎しみと恨みに血塗られるとは誰も予想できなかったはず。隔世の感があります。