フィルム館・9.5ミリ (英パテスコープ) & 映画史の館・フランスより
第二章:ヘラートからシュリーナガルへ(From Herat to Srinagar)
イスラム・カレを過ぎると、吾々が通つて來たメソポタミアから續つてゐた長い谷は、雪を頂くヒンドウ・クシ山系に代つた。これからは太古より大北の遊牧民を誘惑した肥沃な地域ともお別れであつた。吾々は二十の異族が雜居して、今なほ遊牧人、侵入者及び定住者と三つの原始的形態を保つてゐるクーラサン地境に到着した。
『亞細亞大陸横断記: ベイルートより北京へ』
(ヂョルヂュ・ル・フェーヴル、大和書店、1941年)
67頁
1931年4月4日の出発から1ヶ月強、遠征隊は5月中旬にイラクを抜けアフガニスタンに入っていきます。アフガニスタンは中央部から北東にかけて大きな山脈(ヒンドゥークシュ山脈)が伸びており、イスラム・カラからヘラートまで東進するとちょうど山脈地帯にぶつかる形になります。そのためここから南進、ファラー川を越え、山際の南側をぐるりと回りこむようにして進み首都のカブールへと向かっていきました。ちなみにこのルートは現在のアジアハイウェイ路線の1号線に相当しています。
吾々は急に目の前に現れる調和のとれた、しかも變化に富んだ風景に接して、初めて眞の東洋に來たと思つた。實は、吾々のいる所は屋根に掩はれた市場に過ぎなかつた。しかしそこに於ける生活は、カリフ時代そのものであつた。(68頁)
まずはヘラートに到着。アレキサンダー大王時代に起源を持つとされるヘラート城塞で知られたアフガン有数の都市で、遠征隊の訪れた時期にはむしろ首都カブールより賑わいがあったそうです。書籍版の「初めて眞の東洋に來た」は興味深い表現ですよね。バグダートやテヘランでみられたような西欧化・近代化から取り残されていて、古の生活習慣や風俗がそのまま残されていた様子が伺えます。
ヘラートでは伝統楽器ルバーブの演奏やパシュトゥン人の民族舞踊「アタン」なども記録、アフガニスタン独自の文化も多く記録されています。
吾々は東へ進んで直接ワクジル峠へ向ふ筈であつたけれども、南のファラーへ進路を變えた。[…] 路はよかつたが周圍の景色は荒涼そのものであつた。吾々の通つて來たペルシヤの山とは異つて、ぎざぎざの峯が天に聳えてゐた。(72頁)
アールトは、機械力を借りた方がよいと悟つて、索具を對岸に結び付けた。[…] そして、それに繩を通すべき滑車を縛りつけ、一臺の車を繩の端に結びつけた。そしてこの車が他の車を引張つて、一應これを水浸にして對岸にけん引するのであつた。(74頁)
へラート出立後に南進、当時のアフガニスタンは交通インフラが脆弱で、河川にも氾濫対策の堤防がありませんでした。遠征隊は川越えに幾度となく苦しめられていきます。川幅の広いファラー川は難所だったようで車の積み荷を減らし、地元民の協力を仰ぎながら数時間がかりで対岸にたどりついています。
窓に硝子なく、戸口に戸なく、階段に梯子なく、庭園は沙漠になつてゐた。これは古いものを破壊し新しいものを建設せんとした若年の王アマヌラの夢 – 彼は近代主義を遵奉して、あらゆるものに挑戦しようとした – の身に沁みる程の失敗を物語るものであつた。 […] そして今日の眞のアフガニスタンの首府として殘つたのは、土城のあるカブール、淋しい街及びアカシアと老利児樹(ローレル)であつた。(81-82頁)
ゲレシュク~カンダハール~ガズニーを経て1931年6月にカブール到着。アフガニスタン最大の都市ではあったものの、先王アマーヌッラー・ハーンの近代化政策により王宮は廃墟化し放置されていました。アマーヌッラーの失脚(1929年)後にその後を継いだナーディル・シャーが国内の立て直しに取りかかっていた時期に当たり、遠征隊もシャーに謁見し「破格的接待」を受けたと記録されています。しかしながら撮影許可が下りなかったようで、ソーヴァージュの残した未編集ポジを含めて映像記録は確認されておりません。
それを補って余りあるのがカブールで記録された民族舞踊「アタン(atan/attan)」です。クレッシェンドしていく打楽器の原始リズムにあわせながら披露される戦闘の舞で、アフガン青年たちが長い髪を左右に散らしながらスピンを繰り返していきます。ソーヴァージュによる撮影・編集は接写を駆使し、切り替えの多いロシア構成主義風の発想を含んだもので舞の速度感を的確に再現しています。『アジア大陸横断』に記録された伝統音楽や舞踊はどれも素晴らしいのですが、この 「アタン」は白眉の出来栄えになっていました。
その後、遠征隊は一旦はメインルートから外れる形でカブールから西に向かいバーミヤン渓谷を訪れています。二体の巨大な仏像(磨崖仏)で知られる文化遺産で、遠征隊は地元民の手を借りてその頭部付近の石窟まで登っています。磨崖仏および石窟内壁画は2001年以降にタリバンによる攻撃を受けて破壊されてしまったため、1931年当時のオリジナルの姿を伝える貴重な映像です。
1931年6月末、遠征隊はカブールから東進を開始しアフガニスタンを抜けていきます。現在はパキスタンの北部に位置するペシャーワル~ラーワルピンディ―を抜け、当時「インドのヴェニス」と謳われた水の町シュリーナガルに到着しました。インドとパキスタンが分割される以前、英領インドの時代ですので国境の看板は英語仕様になっており、遠征隊を迎えたのもバグパイプを手にした英国軍軍楽隊でした。
地理上はアジアではあるものの、欧米文化圏に一旦戻ってきた流れであり遠征隊には束の間の休息となりました。旅路の最難関であるヒマラヤ越えを控えて資材や食料を補給、ヒマラヤ越えのルートを決定していく作業に入っていきます。
また、アールトらのパミール隊を新彊で出迎える予定の北京隊がウルムチで拘束され連絡不能な状態になっていました。当時、新彊省の政府主席についていたのが金樹仁(Jin Shuren)。金将軍は南京政府の指示に従い、シトロエン北京隊受け入れに一旦は賛成します。しかしながら同隊に北京から中国の科学者が同行する話を聞いて態度を硬化させ、独断で北京隊の追放を決定します。フランス政府、南京政府、さらにはソヴィエト政府まで巻きこむ形で確認と説得作業が行われ、ポワン率いる北京隊が解放されウルムチを後にしたのは2か月経った1931年9月6日のことでした。
『アジア大陸横断』には10秒ほどですが金樹仁本人が登場してきます。盛世才や馬仲英などと並び新疆現代史に大きな影響を与えた人物がさらっと脇役扱いで出てくるのがこの映画の面白い所です。






















