フィルム館・9.5ミリ (英パテスコープ) & 映画史の館・フランスより
第三章:ヒマラヤ越え(Himalaya)
カシミール渓谷 [Vale of Kashmir] – バージル・パス [Burzil Pass] – アストール [Astore] – バンジ [Bunji] – ギルギット [Gilgit] – ノマル [Nomal] – チャラット [Chalat] – フンザ [Hunza] – フンザ・ナガー [Hunza Nagar] – パス [Passu] – ミガー [Misgar] – ミンタカ峠 [Mintaka Pass] – キリク峠 [基里克达坂/Kilik Pass] – タシュクルガン [塔什库尔干/Tashkurgan] – カラクリ湖 [喀拉库勒湖/Karakul Lake] – カシュガル [喀什/Kashgar] – マラルベシ [巴楚/Maralbexi] – トムシュク [图木舒克/Tumxuk] – アクス [阿克苏/Aksu] – バイ [拜城/Bay] – ブグル [轮台/Luntai] – コルラ [库尔勒/Korla] – 焉耆回族自治県 [Yanqi Hui Autonomous County] – 新井子 [Xinjingzi] – トクスン [托克逊县/Toksun] – ウルムチ [乌鲁木齐/Urumqi]
『アジア大陸横断』の第3リールは遠征のハイライトとなるヒマラヤ越えを扱っていきます。
シトロエン遠征隊が計画された当初、アールト隊長はソヴィエト経由で北京に向かう計画を立てており、1930年にはソヴィエト政府からの許可を得ていました。しかしながら同年11月になってソヴィエト政府からその許可が無効である旨の通達を受け取ります。アールトはアフガニスタンから直接中国へ抜けるワハーン回廊経由にルートを切り替えます。しかしながら遠征開始の直前、1931年の2月に北部アフガニスタンで反乱が起こり、ワハーン回廊が閉鎖されたとの報せが届くのでした。
探險隊がカブールを南下してペシャウルに至り、英領印度の一隅を横切ってカシミルからギルギットへ行かれるやうに思はれた。
『亞細亞大陸横断記: ベイルートより北京へ』
(ヂョルヂュ・ル・フェーヴル、大和書店、1941年)
15頁
1931年6月末、アールト率いるパミール隊が英領インドに到着した際、具体的にどのようなルートを使ってヒマラヤを越えるのかはまだ決まっていませんでした。現地では3つの案が検討されていたそうです。1)カシミール西部のペシャーワルからの北上ルート、2)シュリーナガルから北上してギルギットへ抜けるルート、3)一旦東に進み、かつてキャラバンルートとして使用されたレー(Leh)~ヤルカンド(莎車)を辿るルート。アールトが選んだのは2の行路でした。
インド政府の規定で山脈を超える際の白人の最大人数が決められていたため、アールトは遠征隊を3つに分けて出発する形にしました。先遣隊が7月2日、アールト隊長指揮するB隊が7月12日、ソーヴァージュらを含めたC隊が7月20日に出発しています。
翌日、グライスの美しい谷に到着する前に、下に渦巻くキシヤンガンガの急流に架けられた粗末な木造の橋にやって來た時、豫定は全く狂つてしまった。皆は二噸の車が通れるかと心配し出した。(207頁)
峠へ登る途中自動車は、屢々危くも45度の角度に傾いた。その時は非常な注意を以て、クドを滑り落ちないやうに車を支へて、積雪の下にこれらを埋めた。(209頁)
シュリーナガルを出発して最初の数日はまだ道があったようです。ただし自動車の走行を前提としては作られておらず、特に谷を渡した橋は耐久性に問題があるため細心の注意を払いながら(時に人力で牽引して)の作業となり、一日がかりで50キロ進むのがやっとの状況でした。
バージル峠を越えてアストール渓谷の先に行こうとすると道すらないこともありました。車両をばらし、地元で雇った苦力(クーリー)の手を借りて、不安定な足場を恐る恐る進んでいく。数百メートル進むだけで疲労困憊となる重労働が続いていきました。
百人もの人々が粗末な石造の小屋に蟄居して、猫額大の地面を撓まず耕してゐるのであつた。穴だらけのフエルトを着て、穢い毛織の頭巾を纏つたこれらの山岳人は、恰度長い間光と空氣に觸れない囚人のやうな鈍い無感覺な眼つきで、外国人をみるのであつた。(214頁)
ギルギットへたどり着くまでの途上ソーヴァージュはアストール近辺で地元民たちの姿を記録。縁の厚い円形のフェルト帽、インド・アーリア系の顔立ち、コーランを読んでいる場面などからこの地で高地農耕と牧畜を営んでいるシーナ人を捉えた希少な映像と思われます。
1931年8月4日にギルギット到着。遠征隊の噂は村に届いており、多くの見物人が集まっていました。
「おゝ、余がシリナガルの英國友人を訪ねてから、もう十九年にもなるのかな。」
訪問者を引見するフンザの酋長は、嗄れ聲でいひながら微笑んだ。彼は自國の頭飾-短く端を巻いた白い毛織帽-を冠つて、頸に桃色のネクタイを締めてゐた。[…] マンドリン、太鼓及びクラリネットに似た樂器の音に合はせて、酋長の若い踊子の少年達は、腕を重々しく擧げたり、鬘の紐-以前にカシュガルの美人が頭に飾つてゐた-を弄びながら、足先で旋囘した。(223頁)
遠征隊はさらに北上し、フンザの王宮(バルティット・フォート)でブルシャ族の王ナズィム・カーンと謁見。一行を迎えたのは酒と音楽、少年たちの舞だったそうです。
晴れ渡つた空には數條の雲が棚引き、宛も薄青い空に大きな筆を揮つたやうであつた。峠にある永遠の雪原から周圍の山々の頂が高く縮みあがり、空以外には何も見えなかつた。これこそ世界の屋根であつた。(229頁)
3隊に分かれていたパミール班は8月後半ミガーで合流。第2リール紹介で触れたように、新彊省の首席・金樹仁は遠征隊の入国を拒否していたのですが、南京政府からの重ねての指示があり再度許可が下りました。アールト率いる本隊はキリク峠に到達、「世界の屋根」を足元にしつつパキスタン/中国の国境を越えていきます。
吾々は塔什霍爾罕(タシュクルガン)を出發して、寂寞たる谷間を曲折した一本道路に沿つて25哩ばかり進んだ。(240頁)
乾し煉瓦で拵へたものが谷間に點在した。遠くから見ると家のやうでも、これは實は墓であつた。この中には方々を流浪して一生を過ごした遊牧民が永眠してゐるのであつた。吾々は萬象が二つに見え、二つの空の間に生きるやうに思はれる夢の國、湖沼地にやつて來た。隊商が小カラクルの湖畔を通過すると、駱駝と小馬の一群は靜かな水面に陰を映して立ち止まつた。そしてこの汚れのない鏡に、原物と同樣の純潔美麗な穆斯塔覺峰(ムスタグアタ、山中の父)が逆さまに寫つた。(241頁)
タシュクルガンから川沿いに沿って谷間を進み、カラクリ湖を眺めながら次第に高度を下げていきます。シュリーナガル出発から65日目となる1931年9月16日、アールト隊はヒマラヤ~カラコルム山脈を越えて平原に降り立ちました。
一見した所教會の高僧のやうに親切なこれらの長い衣を着た官人達は、烏魯木齊の省主席から探險隊に如何なる科學的調査または活動寫眞の撮影はおろか一枚の寫眞に至るまで、一切これを許可してはならぬと嚴重な訓令を受けてゐたのであつた。(247頁)
カシュガルで北京班からの無電を受け取り、10月8日、カシュガルとウルムチの中間地点にあるアクス市付近で両班は合流を果たします。この辺りは映像記録が残されておらず9.5ミリ版は字幕一枚のみ。金樹仁将軍の命令により写真・動画撮影が禁止されていたためです。
当初45日を予定していたヒマラヤ越えに65日間かかり、北京班合流に手間取った上にウルムチで妨害や足止めを食らったため、ウルムチ出発は12月初旬にずれこみました。気候温順な秋に中国を横断する計画に狂いが生じ、遠征隊は酷寒のゴビ砂漠を東進せざるをえなくなります。
自然や政治状況の困難にめげず遠征隊が高難易度の冒険を完遂していく。『アジア大陸横断』第3リールは、当時の撮影技術の許す範囲でこの試みをドラマチックに再構成したものでした。公開当時、観客が一番心躍らせたのもこの場面だったのでしょう。それでも、新彊篇のやりとりから分かるように現地都合で撮影NGとなった風景や出来事も沢山あったわけです。たとえば苦力として参加した人の証言や地元の自治体の記録と照らしあわせていくと印象は変わってくるのでしょう。
いずれにせよ交通(カラコルム・ハイウェイ)や情報インフラ(オンライン環境)が整えられる以前、文化・社会的に「均され」、観光地化されてしまう前の貴重な動画記録が残された事実に代わりはありません。様々な情報を丁寧に読みこみ、解釈の解像度を数段上げていく必要があります。


































