1934 – 9.5mm 『アジア大陸横断』第4リール 「中国横断」 新彊~ゴビ砂漠~甘粛~寧夏~内モンゴル

フィルム館・9.5ミリ (英パテスコープ) & 映画史の館・フランスより

In the Footsteps of Marco Polo
(“La Croisière jaune”, 1934, Pathé-Natan,
dir/ André Sauvage & Léon Poirier)
4th reel “Across China”

『アジア大陸横断』第4リールは1931年11月末にウルムチを出発した遠征隊が翌32年2月に北京入城するまでの旅路を扱っていきます。新彊からゴビ砂漠に入り、甘粛から黄河沿いに進んで寧夏を経由し、内モンゴルへと入ってから首都に向かう道筋です。

1930年代初頭の中国辺境部の驚くべき現実が記録されており興味深い内容です。ただし編集段階で時系列が大きく乱れており、また字幕での説明が不十分なため何の映像か分かりにくい個所も目立ちます。今回は時系列を整理し直しながら各映像について補足説明を行っていきます。

1)ウルムチ~哈密(ハミ)~酒泉

アールト隊長の受け取った「護照」(パスポート)

1931年11月28日、アールトは官用封筒に収められた一枚の薄い紙を受け取りました。新彊省主席・金樹仁の朱印が押された「護照」。遠征隊が長らく待ち望んでいたパスポートです。冬のゴビ砂漠を渡るため「冬期戰」の準備(ストーブ、羊皮製コートや手袋など)を済ませ、12月2日、9台の遠征隊がウルムチを後にしました。

叛軍の將馬仲英は未だ完全に粉碎されたわけではなく、東干軍を率ゐて甘粛省の隣邊に退却して敦煌、安西を占領し、粛州を脅かしてゐるとの噂がどことなく飛んで來た。探險隊に對する彼の態度は、大抵想像がついたので、彼を避ける必要があつた。これは安西を避けて、沙漠を横斷することを意味した。

『亞細亞大陸横断記: ベイルートより北京へ』
(ヂョルヂュ・ル・フェーヴル、大和書店、1941年)
207頁

ウルムチ [乌鲁木齐/Urumqi] –トルファン [吐鲁番/Turfan] – ルクチュン [魯克沁鎮/Lukqun] – ハミ(クムル) [哈密/Hami (Kumul)] – 苦水 [Kushui] – 鸭子厂 – 明水村 [Mingshui Village] – 粛州(酒泉) [Jiuquan]

計画では粛州(現在の酒泉市)が次の補給地点となっていました。ウルムチから東に進み、ハミ(哈密)を通過して大通りに沿って粛州に向かう予定(①の赤線)だったのですが、不安定な内政情勢が行く手を阻みました。問題となったのは馬仲英の動向。国民革命軍に所属しながらも1930年代に勢力拡大を試み、南京政府に反旗を翻し新彊方面に攻め込みます。ちょうどアールト一行がウルムチに滞在していた時期にハミ(哈密)攻防戦が展開されており、1931年11月に新彊軍が馬仲英を撃退したところでした。退却した馬仲英は安西(現在の敦煌市近辺)に潜伏している(地図の黄緑色部分)との噂があったためルート①は使えなくなってしまいます。

そのためアールトらは苦水でメインルートを外れ、敢えてゴビ砂漠に入り「駱駝路」と呼ばれるルート②を使って酒泉を目指しました。

併し彼 [案内人のゴンボ] は、路が右側に續く以上、これを辿るべきだと忠告した。これには、駱駝は常によい地面を選ぶとの充分の根據があつた。(339頁)

その夜は誰も疲労してゐた。一つのテントを、嵐を防ぐため急いで張つて、寒さに手を青くした憂鬱な汚れた顔をした吾々は、或は立ち、或は蹲つてゐた。「誰かもつと麺類を食べないか。」ゴーフルトーが低聲で叫んだ。ウリアムスが無言のまゝ合圖した。それから彼は、皸切れした手から死皮を削り落として、霜焼けした指に絆瘡膏を巻いた。[…] その寒暖計を卓上に置くや、水銀柱は見る見る中に下がって、遂に零下三十三度に達した。(343-344頁)

「駱駝路」は舗装された道路ではなく、沙漠中に点在するオアシスを結ぶように移動したいにしえの隊商たちの痕跡(駱駝糞や足跡など)です。一本道ではなく複数ルートが並走する形となっており、遠征隊は地元民ゴンボのアドバイスに耳を傾けながら高低差の大きな無人の高原を進んでいきました。沙漠とはいえ標高の高い蒙古高原は12月にはすでに雪が積もっており、夜は気温がマイナス20~30度まで下がったそうです。

12月13日にゴビ砂漠に入った後、一週間かけて18日に酒泉到着。補給を行い、地元の官吏と最低限のやり取りを済ませて3日後には同地を後にしています。劇場公開版(およびそれを元にした9.5ミリ版)に酒泉の映像はあまり含まれてはいないのですが、アウトテイクをまとめた2004年版『もうひとつのアジア大陸横断(L’Autre Croisière Jaune)』には酒泉市街地で撮影されたと思われる市民生活の情景が多く含まれていました。

2)酒泉~銀川~包頭

粛州(酒泉) [Jiuquan] – 张掖 [Zhangye] – 山丹 [Shandan] – 永昌 [Yongchang] – 武威 [Wuwei] – 中卫 [Zhongwei] – 金积 [Jinji] – 宁夏(银川)[Ningxia(Yinchuan)] – 石嘴山 [Shizuishan] – 临河(巴彦淖尔)[Bayan Nur] – 五原 [Wuyuan] – 包头 [Baotou]

酒泉を発ち、遠征隊は進路を東南東に変えて涼州(現在の武威市)へと向かっていきます。補給と休息を涼州で済ませ、年が明けて1月7日に涼州を出発。3日後に初めて黄河到達、長らく旅を続けてきた甘粛省を抜けて現在の寧夏回族自治区へと入っていきました。黄河沿いに北上を続け寧夏(現在の銀川市)~臨河(現在のバヤンノール市)~包頭へと進んでいくのが第4リール中盤の流れです。

この國では、假令働かうとしても、誰もかも一度に掃除夫、勞働者或ひは運搬夫になれるのではない。[…] 斯る場合、無職無宿の浮浪人達のなすことな何であらうか。軍隊になることも常に容易でしかも可能とは限らない。盗むことこそ容易なことであり、若しも一挺の綫銃(ライフル)でも手に入れたら、それこそ匪賊になるのであつた(373頁)

この地方には、所々要塞のある部落や農地が點々と散在するので、我が旅行は單調ではなかつた。併し吾々が城塞に圍まれた町の外側に達した時は何時でも、吾々がどんな風に待遇されるが心配になるのであるが、重い門へ匪賊の頭を耳のところで釘付けにした光景を見せつけられると、何もかも忘れるのであつた。(357頁)

馬仲英の勢力圏から外れた後も遠征隊の行路には依然多くの危難が待ち受けていました。そのひとつが「匪賊(ひぞく)」の存在です。武装盗賊化した一団があちこちに潜伏しておりいつ襲われても不思議はない。中継地点の各地に置かれた補給物資にも略奪の心配がありました。

アールトらがセーフティー・ポイントとして選んだのは各地に点在するミッション・スクールでした。

清朝末期から中国全土に増え始めたミッション・スクールでは読み書き算術や道徳教育、自給自足に必用な技術の学習が進められていて地方部のQOL(生活の質)向上に大きな貢献を果たしています。一方、義和団事件の社会的背景となるなど国内の価値観分断を促した側面もありました。

遠征隊は1931年12月末、涼州でドイツ人宣教師が運営するミッション・スクールに滞在し年越しを迎え、さらに年明け、1月後半には寧夏周辺の三道河に位置するベルギー人宣教師のミッション・スクールで補給を行っています。

旅行の不安、人民の憐憫、軍人の誅求、殺戮略奪から彼等をやつと防御する城塞に囲まれた町、及び突然月光に浮き出た三道河の要塞化したセントゼームス寺院の氣味悪い城壁等は、總てが中世的であつた。カソリック僧の住居たるこの寺院は避難所でもあつた。四角いこの建物は全長五百ヤードに達し、高い城壁と銃眼のある胸壁に取り囲まれていた。(369頁)

教会はしっかりした石造りの城壁に取り囲まれ、銃を手にした宣教師と地元民が交代で周辺を監視。匪賊や暴徒・反乱軍の攻撃に目を光らせていました。宗教施設・教育施設でありながら、地元自治体と連携した民兵機能を有していた様子が伝わってきます。

三道河で撮影されたと思しき映像。地元の若者たちの姿が多く記録されています。漢族、回族、満州族、モンゴル…出自は様々でも皆現地の比較的富裕な層に属していて表情や物腰に余裕があります。

3)包頭〜百霊廟〜ソニド右旗〜張家口〜北京

包头 [Baotou] – 百霊庙 [Bailingmiao] – 苏尼特 [Sonid] – 张北 [Zhangbei] – 张家口 [Kalgan/Zhangjiakou] – 宣化 [Xuanhua] – 怀来 [Huailai] – 北京 [Beijing]

遠征隊は1932年1月25日頃に内モンゴルに入り、臨河(現バヤンノール市)から包頭へ向かいます。地元民に警告されていたように包頭周辺は匪賊の活動が活発で、それに対抗した武装市民も多く、アールトらは細心の注意を払いながら「危險區域」を進んでいきました。1月27日には「独立騎兵隊」を名乗る中国兵一団から銃撃を受け、副隊長デュブルイユがライフルを手に応戦する事態が発生。死傷者こそ出ませんでしたが、副隊長車が11発被弾するなど一歩間違えれば大惨事でした。

包頭から北京へと向かう際、そのまま東進し古都フフホト(呼和浩特)経由で進むコース(①)、一旦南に向かって山西省に入り大同市経由で北京を目指すルート(②)の二つが有力です。アールト一隊が選んだのは北方への迂回ルート③でした。映画版、書籍版ともに説明はありませんが治安の悪い区域を避けた判断だと思われます。

廣漠たる圓形地域の中央に低い丘があつて、その上に祭壇の施物のやうに、寺院が段々に並んでいた。そして太陽が丘の上に昇つて光線が寺院の屋根を照らす時分には、金色の尖塔が祭壇の蠟燭のやうにきらめいた。微風が霧を散らすと、吾々のおどおどする眼前に、雪化石膏の壁と碧い錦手陶器の屋根からなる沙漠の上に聳える美しい町が現れた。(385頁)

包頭から北に進んだ遠征隊が2月4日、辿りついたのは小高い丘にラマ教寺院の立ち並ぶ一角、百霊廟でした。一行は僧侶たちによる歓待を受け、祈祷に参加。ラマ僧も珍客の訪れを喜んでいたようで、初めて目にした撮影機材に触り無邪気に喜んでいる姿が記録されていました。

映画版では百霊廟での映像に続き、「ゲル」と呼ばれる円形テントにもたれたモンゴル人女性が登場。フランス語でインタビューに応え、自民族に伝わる伝統歌を披露しています。

トルグート族の有力王族の娘に当たるニルギドマ王女(Nirgidma de Torhaut/Nirgidma Palta)です。フランスとベルギーに留学経験があり、後にモンゴルの伝統音楽をフランス語訳付きで紹介、また英語圏の雑誌に登場するなど国際的な発信力を持っていた当時のモンゴルでも稀有な女性でした。ちなみに彼女の父親パルタ王子は明治期の日本に留学経験があり、ニルギドマさんも東京生まれだったりします。

『アジア大陸横断』は彼女の姿、さらに歌声まで記録した最も古い動画に当たります。ただしその撮影は1932年の百霊廟ではなく、その前年ウルムチでした。

第2〜3リール紹介で触れたように、1931年の半ばに遠征隊の北京班がウルムチで拘束されています。当時の新疆支配者・金将軍による指示で、その際に脅迫めいた解放条件(遠征隊の所有していた無線設備を欲しがっていたそうです)が付けられていました。同時期、ニルギドマ王女も新疆を通過しようとしたところ当局に拘束され、やはり親族に金品の要求が届いていました。同じ境遇で足止めを食らっていた両者(北京班とニルギドマ王女)に接点が生まれ、その縁でインタビューと撮影が行われたものです。

トルグート族でもチベット仏教が中心のため映画版を見ていても違和感はないのです。それでも出来事の前後関係が不正確でなおかつ紹介の文脈も正しくない点には注意が必要です。

遠征隊は百霊廟を離れて東北に向かい、1932年2月5日に現在のソニド右旗が位置する一角ソニド王府に辿りつきました。王府で歓迎を受けた後、遠征隊は進路を南に変え、張家口市へと入り最後の峡谷を越えていきます。

吾々は並木路を通つて石の城壁を廻り、それから大都會に近づいた證據に、鐸鈴を吊した尖閣のある店舗の前を通つた。店看板、人力車、舊式の四人乗り馬車、結婚及び葬式の行列でごみごみした所を通り抜けて、吾々は大きな城門-北京の西門-をくゞつた。(397頁)

1932年の2月12日、ベイルート出発から315日目に北京に到着。『アジア大陸横断』第4リールは獅子や馬、武官などの石像が立ち並ぶ明十三陵(北京市市街地の北部)の映像で幕を閉じています。この一帯は1980年代以降に保護整備と緑化が進められ、現在は世界遺産として多くの観光客を集めています。

『アジア大陸横断』第4リールは映画のハイライト「ヒマラヤ越え」とゴール地点に当たる「北京編」のつなぎの位置付け。映画版では特に省略が目立ちます。とはいえ半月しか滞在せず、また当局による撮影制限の課された北京に比べても費やした時間は圧倒的に長く、当時の中国の辺境部、新彊/寧夏/内モンゴルの複雑なリアリティが刻みこまれています。