ファニー・ワード Fannie Ward/Fanny Ward (1872 – 1952)

サイン館・合衆国/カナダ/オーストラリア より

Fannie Ward 1916 Inscribed Photo

ファニー・ワードはアメリカ籍の娘さんで、舞台に出る以前の名前はファニー・ブキャナンと云つた。家はミズーリ州のセントルイスにあり、父親のジョン・ブキャナン氏は名の知れた卸売業者であつたのだが、事業の失敗で愛娘は学校を辞めるよう余儀なくされ自活の道を探さざるをえなくなつた。

以前に女優メアリー・アンダーソンのマネージャーを務めており、ブキャナン家とも懇意にしていたジョン・W・ノートン氏の影響もあり、ファニー嬢は舞臺への道を選ぶに相成った。同氏は嬢の演劇の才を認め、役者になるよう勧め、当時ニューヨークで上演されていた『慈善舞踏会(チャリティー・ボール)』のエフィー・シャノンとハーバート・ケルシーと同じ舞台に立つ契約を取りつけるに至つた。振られた役は小さなものだつたが、見事にそれをこなした様はノートン氏をして「嬢はいつか名だたる女優となるであらう」と予言させるに十分であつた。

「舞臺の名高いロマーンス」
グリーン・ブック・マガジン誌 1909年4月号

Fannie Ward was an American girl, and her name before she went upon the stage, was Fannie Buchanan. Her home was in St. Louis, Missouri, and her father, John Buchanan, was a prominant wholesale merchant before the business failure that took his pretty daughter out of school and made it necessary for her to decide on some means of helping herself to a livelihood.

It was through the influence of Mr. John W. Norton, former manager for Mary Anderson, and a friend of the Buchanan family, that Miss Fannie dedided upon a theatrical career. Mr Norton recognized her dramatic capabilities, advised her to become a player, and secured her an engagement with Effie Shanon and Herbert Kelsey who were then playing “The Charity Ball,” in New York. The part to which Miss Ward was assigned was a small one, but she acquitted herelf in a way that brought the prediction from her sponsor, Mr. Norton, that she would someday become a famous actress.

Famous Stage Romances (Green Book Magazine, 1909 April Issue)


(左)1898年、『アルジイ卿夫妻』出演時の雑誌記事から (マンジーズ・マガジン1899年1月号)
(右)1909年『ヴァン・アレンの妻』出演時の雑誌記事より (スミス・マガジン1910年2月号)

1890年前後にはすでに合衆国で舞台に立っていた記録が残っているものの、女優としてを名を上げたのは1894年に英国に渡ってからでした。ドゥル―リー・レーン劇場〜ヴォードヴィル劇場で人気を博し、英国の演劇愛好家からイギリス出身と見なされることもしばしばでした。南アフリカでダイヤモンドの採掘業を行い財を成したジョー・ルイス氏に見初められて1900年に結婚、夫の意向により数年舞台を離れています。1903年に劇界に復帰、『バントック卿の新夫人』『ヴァン・アレンの妻』で成熟した演技を披露、1909年に英国で行われた人気投票で女優部門5位に入るなど同国でも五本指に入る屈指の人気を維持し続けました。


嬢をして今日の人氣を博せしめた作品は、一千九百十四年に、早川雪洲氏やヂャック・ディーン氏などと一座して撮影した日本劇「チート」である。この映畫を製作して以来、嬢は米国映畫界の首腦女優となつた。

爾来、「テネッシーの赦罪者」「國防の爲めに」などを撮影して、益々名聲を昂めたが、昨年の始めに、パセ會社のエストラ映畫の專属女優となつた。

目下は、ラスキー會社の初舞臺當時に戀に落ちたヂャック・ディーン氏と結婚して、幸福な樂しい生活を送って居る。

當年四十四であるけれども、尚未だ二八の少女のやうに、若々しい容貌と豊かな肉體とを持つてゐる。嬢が斯界に喧傳される所以も一つには、この絢爛たる名花の趣を備へて居る爲めである。しかし、技藝そのものから云つても、嬢は優に大花形の中に加へられるだけの天分を持つて居る。

『活動名優寫眞帳』
(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


『チート』(1915年)でのファニー・ワード

1915年初頭、ラスキー映画社がファニー・ワードと契約を結んだ報せが流れます。映画デビュー作となったのが『キティ―の結婚』。社交界を舞台とした軽めの恋愛劇は概ね好評だったものの大きなインパクトを残すには至りませんでした。しかし同年12月、第2弾主演作の『チート』公開で状況が変わります。この時パラマウント社はジェラルディン・ファーラーを招聘した『カルメン』を大きくフィーチャーしていたのですが、『チート』はそれと並ぶ話題を呼び、早川雪洲とファニー・ワードの二人を花形俳優としていきます。

9.5ミリ版『お雪さん』(A Japanese Nightingale、1918年) 米パテックス社プリント

9.5ミリ版『ファニー・ワード孃の初舞臺』(『突風』La Rafale、1920年改題) 仏パテ社プリント

ラスキー/パラマウント社からパテ社に籍を移した後も安定したペースで主演作を発表し続けます。この内『お雪さん』(A Japanese Nightingale、1918年)が後年米パテックス社の9.5ミリ版で発売されたのは以前に紹介した通り。1920年代に拠点をパリに移し、ジャック・ド・バロンセリ監督作品(『突風』と『孤星号の秘密』)出演後女優業から離れています。両者ともフィルムが現存していないとされていますが『突風』(La Rafale、1920年)は冒頭の一部が9.5ミリ用に編集され、『ファニー・ワード孃の初舞臺』の題で市販されていたのが分かっています。


ファニー・ワードの年の取らなさは劇界の最も古い習わしのひとつである。

シアタ―・マガジン 1919年6月号

The youthfulness of Fannie Ward is one of the oldest traditions of the stage.

Theatre magazine, 1919 June Issue


ファニー・ワードの衰えを知らない美貌(”ever youthfulness”)は舞台女優時代から知られており、雑誌や新聞記事で繰り返し話題となっていました。映画界から離れた後、パリに美容製品の専門店をオープン、「若さを保つ秘訣」をテーマにした講演やインタビューに登場し、1930年代初頭に至るまでその知見を活かし一定の影響力を行使していきました。

[IMDb]
Fannie Ward

[Movie Walker]
ファニー・ワード