日本・女優 & 日本・男優 より
以前に昭和14年(1939年)の東京有楽座で観劇記念に残された寄書きを紹介しました。こちらはその2年前、古川緑波一座の主力俳優7名のサインを集めたもの。戦前期、̥無声映画の時代に華々しい実績を残した役者から、円熟した技芸で戦後映画史に爪痕を残した方々まで興味深い名前が並びます。ロッパ氏から順に時計回りに見ていきましょう。

(1)古川 緑波
映画俳優としての古川緑波氏については先日も玩具フィルム(『ロッパの大久保彦左衛門』)を紹介しています。榎本健一やエンタツ・アチャコと並び、戦前期から終戦後に渡り舞台、そしてスクリーンを通じて独自のお笑いを生み出していった大物の一人という位置付けになるのだろうと思います。
緑波氏はまた映画理論家としての側面を持っていました。中学時代に自身で映画雑誌を作ってしまう程の早熟振りで、後に『キネマ旬報』誌同人として、さらに『映画評論』誌編集として活動していたのが知られています。
以前に紹介した『活動畫報』 大正10年9月号には若き緑波氏の手による論考(「説明者の研究〔1〕」)が掲載されていました。若書き感も見て取れるとはいえ、自身の主張を明確かつ体系的な論理で整然と展開していく筆致は高校生離れしており、先輩方の文章と比べて見劣りしない、それどころか別格の知性さえ感じさせるものでした。映画作りに関わっていく中でこの側面は姿を潜めていくのですが、本格的な映画理論をまとめ上げていたらどんな切り口で何を語っていたか興味があります。


(3)三益 愛子
十代で親の反対を押し切って曾我廼家五九郎一座に参加、大阪の舞台で修業を積み、上京後エノケン一座を経てロッパ一座に合流、同座の花形女優に成長していったのが三益愛子さんでした。
「全身から妖しい魅力がたゞよつてゐる」(兒玉孝雄)と形容されたように当初は肉感的な魅力を前面に押し出していました。小杉勇氏との噂話、中野英治氏との多情多恨なロマンスでゴシップ欄を賑わせた後、生涯の伴侶として選んだのは作家の川口松太郎(ロッパ一座『新婚太閤記』の原作および演出を担当しています)でした。このサインを残す直前の昭和11年(1936年)に二人の間に生まれた長男は戦後に美形俳優として活躍、後にTVを通じてお茶の間で親しまれる川口浩氏です。

(4)高尾 光子
1936年8月の有楽座公演に「特別加入」で参加したのが高尾光子さん、以後も舞台や映画作品でロッパ氏と頻繁に共演を重ねていきます。
30年代中盤のPCL繋がりではあるのですが、二人の縁はその少し前に遡ります。1932年末に「笑いの王国」の前身となる「喜劇爆笑隊」が組織された際、高尾光子さんは花岡菊子、龍田静枝、岡田静江等と共にその第一回公演に参加。直後に開かれた第二回公演でパフォーマーデビュー(声帯模写)を果たしたのがロッパ氏でした。
1920年代の絶対的子役だった高尾光子さんが新たなキャリア形成を試みていく中、舞台やお笑いといったジャンルと接点が出来つつあって、折から時代の寵児として登場したロッパ氏の動きに彼女も合流していった。このサインからそんな風景が見えてきます。

(5)花井 淳子
色紙左上に残されたサインは花井淳子さん。10代半ばで浅草のカジノ・フォーリーに出演し歌と踊りを披露。カジノ・フォーリーで内紛が発生した1930年、エノケンに従う形で脱退し新カジノ・フォーリーに参加しています。30年代中盤ロッパ一座に合流、一時期は三益愛子さんに次ぐ主力女優扱いを受けていました。1940年に出版された高見順氏の小説『如何なる星の下に』で主人公が想いを寄せる17歳の踊り子「小柳雅子」のモデルとなったのが花井淳子さんなのだそうです。
1940年を境にメディアへの露出が無くなっており、1944年に公刊された『東宝十年史』(東京宝塚劇場)の巻末、「物故社員」欄に名前が掲載されています。
JMDbやIMDbに登録がありませんが、当時物の資料から1935年『ラヂオの女王』と翌年の『歌ふ弥次喜多』(いずれもPCL作品)に出演していたのが判明しています。

(6)林 寛
ロッパ一座から日活~大映〜新東宝に籍を移しながら老け役のエキスパートとして重用され、中でも嵐寛寿郎が明治天皇を演じた一連の作品での乃木将軍役が知られています。
ココログに林寛氏の御子息が当時物の画像や資料などをまとめているサイト(「俳優・林寛の生涯」)あり。日活に移籍して2作目となる『キャラコさん』撮影時のエピソードが面白かったです。



