市川 百々之助 [Ichikawa Momonosuke]

日本・男優 より

Ichikawa Momonosuke
Late 1920s Autographed Postcard

(生年月日)明治三十九年五月八日
(略歴)廣島市生れ
 (学校)高等小學卒業
 (舞臺)七歳にて初舞臺(近江源治の小四郎)
 (撮影)十二年九月帝キネ入社
(代表的出演映畫)「ローマの使者」
(處女出演映畫)「大江戸の武士」
(得意の役)美しき少年の役
(趣味)運動
(愛讀書)冒險小説探偵小説
(抱負)舊映畫をもつと外國の時代物の樣に現代的色彩でやつて見たいと存じます

「市川百々之助」(本名=上田直正)
『映画新研究十講と俳優名鑑』
(1924年、朝日新聞社、全関西映畫協會)


明治三十九年七月二十四日廣島に生れ、七歳で舞臺生活に入り『近江源治』の小四郎を勤む。永い間子供芝居の座頭として人氣を博してゐたが大正十三年九月帝キネへ入り嵐璃德に就て研究し一躍時代劇部のスターと出世す。初演は『大江戸の武士』で後『落城の唄』『淸姫の戀』『天王寺の腹切』『關東綱五郎』『若武者』『侠客』『若樣』『劍難』『勤王か佐幕か』『女難』等多数あり最近主演の映畫は『濱の若者』『競艶美男』等ありキネマ界に雄飛してゐる。最もチヤンバラものが得意である。本名上田眞正。現住所大阪府下中河内郡小坂撮影所前

「市川 百々之助(帝キネ)」
『玉麗佳集』
(1928年2月、中央書院)


明治三十九年三月二十三日廣島市に上田直正を本名として出生。五歳の時初舞臺を踏み、市川中車の門に入り少年劇を組織して各地を巡業す時十二歳。その後葉村家一派に加入出演したり中村扇雀一座に加入し流轉を續け大正十一年帝キネ小阪映畫に入社し十四年蘆屋映畫獨立と共に行動を共にし昭和壹年帝キネ直屬となり現在まで帝キネのため自己のため奮勵しその聲價を海内に披まる。主演映畫の代表的なるもの五十餘本あるが、その内佳作として知らるものに「落城唄」「抜討權八」「羅馬の使者」「女難」「勤王か佐幕か」「若様」「劔難」「高田の馬場」「競艶美男」「木村長門守」等。身長五尺三寸、体重十四貫。趣味は讀書と映畫研究。嗜好は果物。現住所は大阪市天王寺區眞法院町二十一番地。

「市川 百々之助」
『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』
(1928年7月、映畫世界社)


当時帝キネが百々之助をいかに待遇したか、生活費と公用衣服を全部会社持ちで、月給二千五百円、その上父親瓢蔵に捨扶持二百五十円と伝えられていたが、今の金にしたら大したものである、僅か二十才の若者が莫大な金は取るし、周囲からは先生、先生と祭上げられては増長するのも無理もない、本当に彼を愛し彼を押え指導するものがあったら、あんなに早く凋落せずとも済んだと思う、百々之助がなぜあんなに人気が出たのか、その要素は確かにあった、マスクが好い身体の線が好い、熱のこもった演技力、第一売物の殺陣はいささか踊りの手を加味する点もあったが、宙返り、段返り、二ッ返り、後返り、逆立ち、あごつき、重ねどんどん、飛び越し、ぎば、車、大まくり、山形、取った、仕ぬき、俵転び等、殺陣には約束があるが、百々之助はそれらを全部身につけ、一糸乱れぬ鮮やかなチャンバラは、われわれですら感心することが度々あった、人気のあったのはむべなるかなである。

日本新聞通信、昭和40年11月15日号
『剣戟スター市川百々之助の記録』(柴田勝、1983年)収録


[JMDb]
市川百々之助

[IMDb]
Momonosuke Ichikawa

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