日本・女優 & 女優別絵葉書ギャラリーより
未だ「小坂時代劇」が在つた頃、尾上紋十郎の主演映畫に出てゐたが、後アシア時代劇部に編入された年若い女優。連續映畫『孔雀の光』に重要な姫君の役を受持つてから頓にその腕を認められた。二十瞼の、髪のうつくしい、そして頬の線の整った美人である。今は、時代、現代の両刀使ひ。
『日本映画年鑑 大正十五年昭和二年 第三年版』
(大日本雄弁会講談社、1927年4月、「泉晴子[原文ママ]」)
本名は泉井初子、明治四十二年十二月二十一日大阪市に生る。大正十三年四月四天王寺第小學校を卒業し、十四年六月帝キネに入社し、十五年三月蘆屋に入社し相當認められしも家事上止むを得ず退社しカエーユニオンに入る。趣味は映畫鑑賞と乗馬と舞と三味線。嗜好はチキンライス、カツ、バナゝ、ブドウ、汁粉ゼンザイ等である。現在所は大阪市西成區津守町木津守役場うらである。
『『日本映畫俳優名鑑』(1928年7月、映畫世界社)
1909年、大阪に生まれる。1924年、天王寺尋常小学校高等科を卒業。翌年、帝キネの女優・津村玉枝の内弟子となり、小坂撮影所に入社。その年、尾上紋十郎の相手役に抜擢され、次いで新聞の連載小説を映画化した『孔雀の光』に、八重姫役で出演。その後も可憐な娘役として順調に成長する。
1928年、マキノプロヘ移籍。翌年、マキノ正博監督の『首の座』、滝沢英輔監督の『パイプの三吉』に出演。1931年、マキノプロ最後の作品『京小唄柳さくら』ではヒロインを演じるなど、時代劇現代劇を問わず活躍する。この後、新興キネマへ入社。この頃には色っぽさも身につけ、1932年には阪妻プロ『片腕仁義』で阪東妻三郎の相手役をつとめる。1933年、『秋祭深川音頭』で水芸人に扮した折りには、背中を吊るされたまま空中曲芸を演じ、女優根性を見せた。しかし、綱から降ろされた途端に昏倒し、長期休養するなどという事件もあったが、翌年には再び阪妻の相手役として元気な姿を見せた。
1936年、極東映画へ移籍し、『銭五曼陀羅』で主演。翌年、東宝系今井映画の創立に参加。『高杉晋作』『里見八犬伝』に出演する。1938年、『俵星玄蕃』を最後に引退。日華事変の最中、北京へ渡るが終戦で無一物となるが、京都へ帰り、祇園に料亭を開いて成功する。1950年、肺結核のため41歳の生涯を閉じた
『日本無声映画大全』(2000年、マツダ映画社)
[JMDb]
泉清子
[IMDb]
Kiyoko Izumi


