ルートヴィヒ・ユテル(1889 – 1941) ある小人症―家の物語

小人症映画小史(05)


ルートヴィヒ氏の事故死を伝える
1941年4月1日付オークランド・トリビューン紙

 亡くなったのはサンパブロ通り2557番に住むチャールズ・ラドウィグ氏51歳。
 ラドウィグ氏は身長109センチ、シンガーズ・ミジェット団の一員としてゴールデンゲート国際博覧会に出演。昨夜サンパブロ通りとミード通りの交差点で乗用車に轢かれ、ハイランドホテルに運ばれたがその場で死亡が確認された。
 警察発表によると、バークレイのカリフォルニア通り2341番在住のジェームズ・L・ロバートソン氏が運転する乗用車に轢かれたもので、歩行者側の信号が赤だったそうである。車道にいた被害者の姿が見えなかったとロバートソン氏は供述している。

オークランド・トリビューン紙 1941年4月1日付

The Dead: […] Charles Ludwig, 51, of 2557 San Pablo Avenue. […]
Ludwig, who was only 3 feet 7 inches tall and appeared with Singers’ Midgets at the Golden International Exposition, was pronounced dead on arrival at Highland Hospital last night after he was struck by an automobile at San Pabro and Mead Avenues.
Police said that he was jay walking across the intersection when the car, driven by James L. Robertson, 33, of 2341 California Street, Berkeley, hit him. Robertson said that he did not see the midget in the diving rain.

Two Killed When Sedan Skids Into Bus On Bay Bridge; Midget Hit, Dies; Fatal Heart Attack Follows Auto Crash
(Oakland Tribune, April 1st, 1941)


1941年3月31日夜、カリフォルニア州オークランドの交差点で事故が起こり、通路を横断中の歩行者が亡くなりました。事故にあったのはチャールズ・ラドウィグ氏で、原因は歩行者側の信号無視だったそうです。

翌日の新聞記事ではチャールズ氏が小人症(身長3.7フィート=約109センチ)であった点に触れられていました。シンガーズ・ミジェット一団として、数年前に開催されたサンフランシスコ博に参加していた経歴も付されていました。当時、事故の被害者が第一次大戦前の小人国イベントで活躍した「ルートヴィヒ・ユテル」と同一人物だと気がついた人は誰もいなかったと思われます。

チャールズ氏は欧州の小人症研究史で名を知られたキプケ家の血を継ぐ人物です。

一家の関係を略図で示してあります。中心となっているのはダグマー(Dagmar Kipke)&エリザベート・キプケ(Elisabeth Kipke)の小人症姉妹。それぞれが結婚後に子供を設けています。この図は1911年の医学論文に付された5代に渡る家系図を簡略化したものでオリジナルは下の図となっています:

4世代目(IV行)の11の黒円がダグマーさん、12がヤコブ氏、14の黒円がエリザベートさんに対応しており、5世代目(V行)の6がルートヴィヒ氏、8の黒い円がアンジェリカさんに当たります。

上の3枚はいずれも1909年パリでのイベント「小人国」で販売されていた絵葉書で、一番左が両親にあたヤコブ&ダグマー夫妻、中央が19歳頃のルートヴィヒ・ユテル氏、右が伯母と従妹にあたるエリザベート&アンジェリカ・デルフラー母娘です。

キプケ家はACH(軟骨無形性症 achondroplasia)と呼ばれる四肢短縮型の疾患を持つ家系でした。四肢が短く、頭頂部にふくらみがあり、手の指の長さが等しいといった身体的特徴が見られるものです。ダグマーさんとエリザベートさん、さらにエリザベートさんが一般人との間に設けたアンジェリカさんにこの特徴を見て取ることできます。

一方ルートヴィヒ氏の父に当たるヤコブ氏は成長ホルモン欠損系(下垂体性小人症)の特徴を見せています。

1909年の仏研究論文より。当時の身長は89.5センチでした

ルートヴィヒ氏は1909年フランス、翌1910年英国で、それぞれイベント開催に併せて行われた医療研究のデータ取りに協力しています、父親の血を引いた成長ホルモン欠損系(下垂体性小人症)とされています。読み書きの能力に問題はなく、手先の動きもしっかりしており「画伯」として絵画を披露するほどの腕前でした。

1903年頃のユテル小人一座絵葉書。右から順にアンジェリカ、エリザベート、ダグマー、ヤコブ(ルートヴィヒ氏は不参加)
ヤコブ氏亡き後のユテル小人一座。右端にダグマー
中央に指揮棒を手にしたルートヴィヒ

1909年(明治42年)、パリのダクリマタシオン庭園で「小人国」が開催されました。興行師ニコル・ゲルソン企画によるイベントで、300名(公称。実際はその半数程度だったとされています)を超える小人症のパフォーマーが世界各地から集まり、実際に生活を始めた「王国」を訪ねてみようという趣旨の仮想テーマパークでした。

庭園の一角に広い芝地があって、そこには半年前から準備されていた石造りの建物が並んでいました。市役所、郵便局、警察、消防署、商店、教会、劇場…町の機能は一通り揃っており、教会ではミサが行われ、商店では買い物ができ、ミニサイズの消防車が登場、超小型の乗合馬車で王国内を周遊できるなど大人だけでなく子供も楽しめる様々な工夫がほどこされていました。

大きな枠組みで言えば前世紀から流行していた身体障碍のスペクタクル化を特殊な方向に推し進めた内容です。とはいえこれほどの規模で開催された小人症関連イベントは前例がなく、またメディアを使った巧みなプロモーションが功を奏し1909年夏~秋のフランスで最も話題を呼んだイベントとなりました。

この小人国イベントは後年の映画史に少なからぬ影響を及ぼしていきます。フェルディナン・ゼッカ監督が1914年に制作した 『小人たちの王国 対 巨人国の王ギガス』の主要俳優がこのイベントの出演メンバーだった(ツーシュケ小人座とハヤティ・ハッシド氏)のはフィルム紹介時に触れた通りです。また、映画館で毎週上映されている時事ニュースで時折小人芸人の近況が伝えられるなど、小人症の人々が映像として記録される/それを見る行為が、フランスではこの1910年頃を境に一般化、日常化していくようになりました。

小人国は仏ベルエポックの綺想の極みと呼べる現象でした。その衝撃は国外へと波及、1910年から13年にかけ英~米~豪で派生イベントも開催されています。しかし1914年の大戦勃発後に国境をまたぐ移動は制限。イベントに参加していた多くの小人症芸人が活動を停止、以後の足取りがつかめなくなっています。

それでも音楽や舞踏の才能があった若手の一部は大西洋を渡り、政治・経済・文化で台頭の著しかった合衆国に活動の場を求めていきます。ツーシュケ一座のハインリッヒ&ブルーノ・グラウアー兄弟、ザイナルト小人座のイロンカ・ブラシェク嬢とハンシ・アンドレ嬢らがローズ王立小人座(Rose’s Royal Midgets)に加わって渡米した例がそれに当たります。さらにドイツの興行師レオ・シンガーが組織した「シンガー小人座(シンガーズ・ミジェット)」も渡米組です。同一座は現地での採用を重ね初期のドイツ色を次第に払拭しアメリカ文化に同化していきます。

ルートヴィヒ氏もまたアメリカに渡った一人でした。

上の写真は1935年、カリフォルニア太平洋博で開催された小人国イベントの紹介記事です。同イベントはシンガー小人座を中心に組織されたもので個々の被写体についてまでは明記されていないのですが、左から二人目、初老の男性がルートヴィヒ氏です。

生え際の形や目鼻立ちに1910年頃の面影が残っていますよね。同氏は渡米後「チャールズ・ラドウィグ(Charles Ludwig)」と名を改め活動しており、カリフォルニア太平洋博では小人国の警察署長役で登場していました。

1935年『猛獣師の子』より。ウォーレス・ビアリーと並んで

また同年(1935年)ウォーレス・ビアリー主演のサーカス映画『猛獣師の子』に客演、映画俳優としてもデビューを飾っています。

1939年にゴールデンゲート国際博覧会に参加。さらにシンガー小人座の一員として同年公開作『オズの魔法使い』に出演。シンガーズ・ミジェットが担当したのは有名な「マンチカン」です。現実世界から飛ばされてきたヒロイン(ジュディー・ガーランド)が魔法の国の通過儀礼を受ける場面で、色彩やかな衣装に身を包んだ小人村の人々が一糸乱れぬ舞と歌を披露。ルートヴィヒ氏は村人の一人として目立たない形での出演となっていました。

冒頭の新聞記事で触れたように、この2年後ルートヴィヒ氏はオークランドの自宅にほど近い交差点で事故に遭って亡くなっています。

ルートヴィヒ氏の直筆サイン(1909年小人国イベント)

第一次大戦前の小人国イベントと『オズの魔法使い』には30年の隔たりがあります。前者に参加していた面々はほぼ全員が表舞台から姿を消しており、どちらもに参加していたのはルートヴィヒ・ユテル氏ただ一人でした。

1900年代前半ドイツでの小人座の流行が無ければ1910年前後のパリ小人国イベントの盛り上がりもなく、さらに1920年代の合衆国への大量移住もなく、結果として1930年代『オズの魔法使い』の小人村も現在と同じ表現にはならなかった。欧米圏の政治・文化・経済が連動していた様子が見えてくる話で、ルートヴィヒ・ユテル氏はその歴史を直接に生きた点に於いて特筆すべき存在でした。

[IMDb]
Charles Ludwig

[Movie Walker]


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