フィルム館・9.5ミリ (英パテスコープ) & 映画史の館・フランス より
王の娘ジュラナール姫(ナタリー・コヴァンコ)を乗せた船が嵐に巻きこまれ転覆した。幸いにも浜辺に打ち上げられた姫君は一命を取りとめ、自らの幸運をアッラーに感謝した。ところがその言葉を聞きとがめられ、地元の漁師によって捕らえられ宮廷に引き出される。アッラーの教えを蛇蝎の如く嫌う王はジュラナールの処刑を命じるのだが、その息子、王子ソレイマン(ニコラス・リムスキー)が父王に懇願し女の処刑を自ら引き受ける。
宮殿の外へ連れ出されたジュラナール。ところが予想に反しソレイマンは「アッラーの神の御加護を」と姫を解放した。ソレイマンもまた、父親に隠れて秘かにイスラムの教えに帰依していたのである。
ソレイマンは宮殿へと戻り、夜の祈祷を行っていた。しかし不覚にもその姿を佞臣に見とがめられ、話は父王に伝わることとなった。激怒した父王は即刻息子を逮捕させ、その斬首を命じるのであった。斧を手にした執行人の前に引き立てられていく王子、その瞬間、空からどこからともなく神の声が轟いたのであつた。
「石の心を持つ者は、それに相応しい石の體に変わるが良い」
この言葉と共に、宮殿にいた者たちは石となつた。神の怒りを免れたのは王子一人であつた。ソレイマンは折しも旅のキャラバン隊に助けられていたジュラナール姫と合流し、生命の気配の消えた宮殿を後にするのであつた。




ソレイマン王子とジュラナール姫は長旅の後、大きな町に辿りついた。しばしの休息を喜んだ二人であつたが、この町は暴君サラマンドラによって支配されおり行商のキャラバンの略奪を常としていた。一行は捕えられソレイマンは苦役に就かされる。監視の目を盗んでジュラナールの救出に向かうが多勢に無勢、再び追われる身となった。






一方、暴君サラマンドラはジュラナール姫の美しさに心を奪われ女を後宮に迎えいれた。それを快く思っていなかったのがハーレムでは古株のゾベイドであつた。王の寵愛を失うのを恐れ、ゾベイドは姦計を用いてジュラナールに近づき手下に命じて女を拉致させた。
ソレイマンは冷たい水に身を隠していた。人の気配が無くなったのを見計らい、拉致されたジュラナールを助けんと後を追う。姫は木棺に閉じこめられ生き埋めにされようとしていた。そこに再び神の声が響き渡る。「卑しき奴隷どもよ、神の炎によって滅びるがよい」。
その瞬間、辺り一帯は業火に包まれた。逃げ惑う人々。果たしてソレイマンは麗しきジュラナールの危地を救うことができるのか。呪術と魔法が生きていた時代、神の恩寵に包まれた人々の苦難の旅路の行く末や如何に。
以前にロシアのカチャーロフ・グループについてまとめた折に触れたように、1920年、ロシア革命の余波を受け帝政期の映画人がフランスに拠点を移し「アルバトロス社」を立ち上げフランス映画界に新風を吹き込みました。『千一夜物語』はその最初期の一作。厳密にはイスラム古典文学の映像化とは言えず、あくまでも千夜一夜物語からキャラクター名やアイデアを借りてきてパッチワークのように組み合わせています。
例えばヒロインの名(オリジナル表記は「Goul-y-Hanar」)は「ザクロの花」を意味するペルシャ語由来(گلنار)で、千夜一夜物語の第738夜「海のジュラーナルの話」の主人公から借りてきたものです。一方、火を崇める邪教の徒がアラーの怒りに触れ石と化す逸話は第63夜で語られており、そのエピソードに登場してくる女性ゾベイドの名を映画版は敵役の女性に与えている…といった具合です。
アルバトロス版『千一夜物語』はイスラム古典からエキゾチックな要素を借り受けつつ、そこにハリウッド流の活劇要素を混ぜあわせている点で興味深い一作です。作品中盤以降、ソレイマンは姫君救出のため剣を手に敵と戦い、建物の窓から飛び降り、椰子の木に登り、潜水し、炎を潜り抜ける八面六臂の活躍を見せます。フェアバンクスやパール・ホワイト活劇を念頭に置いたもので、欧州ではドイツのハリー・ピールを除くとこういった作品は作られていなかったため当時の観衆に新鮮な驚きを持って迎えられています。
『千一夜物語』は1932年に英パテスコープ社が初めて9.5ミリ化(3巻物)、同社でも数少ない調色プリントとして発売されました。35ミリ版は確認されておらず現時点では9.5ミリ版のみ現存。2010年代中盤に英国のフィルム蒐集家クリストファー・バード(Christopher Bird)氏が完全版をデジタル化しており国外の映画祭で何度か上映されています。
今回入手したのは完全版ではなく第2巻と第3巻をまとめた独自編集版。主人公たちが暴君サラマンドラが統治する町に辿りついてからの流れに対応したものです。
ヨセフ・エリモリエフ氏は、十年前モスコーにおいて映畫事業を始め、革命の時脱れて佛蘭西に來り、引つゞき巴里に於いて映畫の製作に從事して居た。その作品の一つに『千一夜物語』がある。監督はトウルヤンスキー氏で、ニコラス・リムスキイ氏、ナタリイ・コヴアンコ夫人などの露西亜俳優は此の映畫に依つて始めて認められた。
『欧米及日本の映画史』
(石巻良夫、プラトン社、、1925年12月
「千一夜物語」 アルビアン・ナイトの物語、トウルヤンスキーの宛然繪の樣な映畫、ナタリー・コヴアンコは初めてその妖艶な姿を日本のスクリーンに現はす 五月十六日東洋キネマ
『日本映画年鑑 大正13・4年度』
(東京朝日新聞発行所、アサヒグラフ編輯局・編、1925年6月)
日本では4年遅れて大正14年(1925年5月)に公開されました。
大正中期の日本ではロシア帝政期映画が紹介されておらず、ロシア語やロシア文化に詳しい一部知識人(昇曙夢など)のみがその存在を知っている感じでした。アルバトロス社諸作を通じ初めてロシア映画に接した愛好家が多かったことになります。演劇や文学の伝統に裏付けられながらも重くなり過ぎず、劇的な表現を好み実験精神にも溢れている…明朗快活なアメリカ映画、重厚なドイツ映画、ふわっとしたフランス映画のいずれとも異なったスタイルは日本でも好意的に受け入れられていました。
以前に紹介したキネマ旬報合本(1924年夏〜25年初頭)の辺りで『キイン』が盛り上がっていて、畳みかけるように封切られたのが『千一夜物語』。日本初お目見えとなったニコラ(ス)・リムスキ―とナタリー・コヴァンコの名を広く知らしめるきっかけとなった一作です。
[IMDb]
Les contes de mille et une nuits
[Movie Walker]
千一夜物語





