1921年 – クロアチア・ザグレブ公演中のモスクワ芸術座カチャーロフ・グループ 直筆サイン入り絵葉書8点

Moskovskii Khudozhestvennii Teatr at Zagreb (1921).
8 Autographed Postcards

ロストフ・ナ・ドヌー、エカテリノダールと回った一行は、1920年3月にはノヴォロシイスクから海路グルジアに渡る。ここに至ってようやくモスクワと連絡がついたものの、劇団からはいま帰ってもしょうがないとのつれない返事がかえってきただけ。そこで再び海路コンスタンチノーブルへ渡った一行は公演を重ねながらバルカン半島を北上して行くことにした。この巡演は「ソフィア、ベオグラード、リュブリアナ、ノヴィ・サド、ザグレブなど、どこでも熱い歓迎を受け」(Inov 2003:14)、バルカン諸国に多くの芸術座シンパを生んだのだという。

「1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について」
大平陽一

1919年夏に海外巡業へ向かったモスクワ芸術座のメンバーがロシア革命の余波で帰国できなくなり、その後チェコスロバキア政府の援助を受けてプラハを拠点に活動し始めた…という「プラハ・グループ」を論じた一節です。大きくはロシア/ソヴィエト演劇史の一エピソードの括りながら、中欧~東欧への文化的影響や「文化の越境」といった視点から見ても興味深いものです。

革命前、舞台俳優たちはしばしば映画にも出演していた。

「異境のモスクワ芸術座:モスクワ芸術座プラハ・グループと女優マリア・ゲルマノワ」
諫早勇一

プラハ・グループを扱ったもう一本の論文で触れられていたように帝政期ロシアの舞台俳優の多くが映画と接点をもっていました。1923年には『カリガリ博士』で知られるロベルト・ヴィーネ監督による独映画『罪と罰』が公開されましたが、同作のキャストはプラハ・グループ所属の俳優で固められたものです。

ラスコーリニコフ(クマラ)

ラスコーリニコフの母と妹(スクルスカヤ&タラソワ)

死の床のマルメラードフ(右、タルカーノフ)とその妻(左、ゲルマノワ)

ラスコーリニコフとソーニャ(右、クルィジャノフスカヤ)

スヴィドリガイロフ(シャーロフ)

今回紹介するのはこの一団が正式にプラハを拠点とする直前の時期(1921年初頭)にクロアチアのザグレブで公演を行った際に残したサイン物のセットです。2016年と2021年の2度に分けて購入したもので元々は15枚ほどの塊でした。予算の都合ですべてを揃えることはできませんでしたが看板女優のオリガ・クニッペル・チェーホワ(戯曲家チェーホフの妻)、花形女優のクルィジャノフスカヤやオルロワ、実力派のマッサリチノフなどが含まれています。

・オリガ・クニッペル・チェーホワ [Olga Knipper-Chekhova] 日本語wiki
・ウェラ・オルロワ [Vera Orlova] IMDb/Movie Walker
・ピョートル・シャーロフ [Petr Sharov] IMDb/Movie Walker
・ヴァシーリー・ヴァシレフ [Vasilij Vasilev] IMDb
・ピョートル・バクシェイエフ [Pyotr Baksheyev] IMDb
・マリア・クルィジャノフスカヤ [Maria Kryshanovskaya] IMDb/Movie Walker
・エリザベータ・スクルスカヤ [Elisabeta Skulskaja] IMDb/Movie Walker
・ニコライ・マッサリチノフ [Nikolaj Osipovic Masalitinov] IMDb

ロシア革命の余波が西欧映画に与えた例としては仏アルバトロス映画社や映画プロデューサー・エルモーリエフの活動が知られています。後者が渡仏前に製作していた作品には芸術座俳優(オルロワ、バクシェイエフ、ゲルマノワ)が多く出演していました。コンスタンチノープル経由でパリに亡命したエルモーリエフが仏無声映画史の発展に深くかかわり、一方で芸術座俳優たちがプラハ経由でドイツ表現主義に絡んでいく…別ルートで同時進行していた2つの風景が同じ根を持っていたと確認できる映画史資料でもあります。

[IMDb]
Raskolnikow

[Movie Walker]
罪と罰

1926 – 『日活俳優名鑑 1926+10』(『大日活』二周年記念附録)

« Nikkatsu Famous Players 1926 »
(« Dai Nikkatsu » 1926 October Issue Supplement)

大正15年10月、雑誌『大日活』創刊2周年を記念し同誌の付録として製作された日活所属俳優の名鑑。サイズは11.2×15.0センチ。16頁3段組に男優59名、女優35名の略歴をまとめています。表紙は梅村蓉子。

『血煙高田の馬場』でお勘婆さんを演じていた市川春衛、『一心太助』で老金貸しを演じた尾上卯多五郎、松之助映画の常連だった嵐玨松郎や尾上蝶次郎、悪役で活躍した千松實や中村仙之助…通常の名鑑は紙数の都合もあって主演から準主演クラスの俳優さんに偏ってしまうのに対し、この冊子では子役、脇役や老け役専門の男女優まで丁寧に拾い上げています。

表紙デザインを含めて出来の良い一冊で、俳優たちの親しみやすさ、会社の好調ぶりと一体感を強調しています。

ただ、この名鑑が出た時期の日活は設立以来最大の危機を迎えていました。大正15年9月11日、日活の大黒柱であった尾上松之助が亡くなっているのです。裏書を見ると印刷所の納本は9月8日。修正は間にあわず、松之助存命の書き方を残したまま購読者の手に届けられてしまう形となりました。

松之助人気に頼ることはもうできない。日活の判断は非情なものでした。

尾上松之助氏の死とともに所内に蔓る積弊一掃の機會を早めるものと觀測されてゐたが果然拾八日午後京都市木屋町中村屋にて横田副社長根岸支配人池永所長杜重支店長等が會合協議の結果新劇部男優小村新一郎齋藤達雄宇田川寒待弓削宗貞外三拾六名女優部では宮部静子、本田歌子、衣笠みどり、松島英子、高島京子、香川満子、巽久子、橘道子外数名を解雇した。

それと同時に東坊城恭長、若葉馨、木藤茂に俳優を廃めさせ東坊城若葉の兩名は一時名目だけの脚本部附となし木藤は監督助手に祭り上げるなど大整理を行ふ[…]。

1926年『キネマ花形』 (『活動花形』改題 11月号 花形社)

「積弊」と見なされた俳優たちが一斉に「整理」されていきます。稼ぎ頭が突然不在になった状況で今まで通りの運営はできない。経営陣視点で見るならこの判断も理解はできます。とはいえ俳優組合も機能していなかった時期ですし、一方的に解雇された役者側はたまったものではなかったでしょう。

ちなみに『日活五十年史』にこの件の記述はありません。また『映画と劇』10月号・11月号や『日本映画年鑑(第三年版)』でも一切言及されていませんでした。大手映画社への「配慮」もあり、多くの俳優たちがほとんど誰にも知られぬまま転籍、転職、廃業していったことになります。

以前に若葉馨氏の「1928年転職報告葉書」を紹介しましたが、これは同氏が2年の窓際生活の後、時代劇俳優としてキャリアを再開した時の一通です。また斎藤達夫氏は古巣の松竹に拾われ、軽妙な芸でトーキー以後に評価をあげていきます。木藤茂氏は役者を廃業、監督としてのキャリアを築いていきました。

しかしそういった例はごく僅か。弓削宗貞など名を挙げられた俳優たちの大半、また名前すら言及されていない一部の役者(大谷良子、東加代子、秩父かほる、嵐秀之助)はこの時期を最後に出演記録が途絶えてしまっています。

この名鑑は1926年10月時点の日活の現状を反映していないのですが、松之助以前/以後という大きな断絶の記録として興味深い資料になっていると思われます。

マリア・ヤコビニ Maria Jacobini (1892 – 1944) 伊

イタリア [Italy]より

Maria Jacobini Autographed Postcard

藝風。打ち沈んだ面影、何とない寂しみを含むその頬笑み、胸の悩みに悶える女の性格、其を表す事に於て卓越した技巧を有するマリア・ヤコビニ。彼女は過去に於てはサヴオイア社作『ジヤンダーク』『生ける屍』で我々に好評を得たが、近く輸入された杜翁[トルストイ]の『復活』(チベル社作)が封切の暁には、更に卓絶した彼女の藝を味ひ得る事と信ずる。

経歴。マリア・ヤコビニ嬢が斯界に入つての第一歩はトリノ市のサヴオイア會社に於てであつた。永くの間舞臺上の經驗を積んだ嬢は、斯界に於ても忽ち好評を得た。さうして同社の、南歐映畫界にも誇るに足る傑作『ジヤンダーク』及び『全勝』(勝利の徽章)に主演を演ずるに至つた。尚數多の映畫に名優ヂロ・ロンバルヂー氏と共演し好評を得たが、一九一三年暮パスクワリ社に轉じ、翌一九一四年更にチエリオ社に入り、『悲しき集』『死なない爲』『死の恐ろしき翼』『アナンケ』等に主役を演じて世評に昇り、嬢の斯界に於る人気は一躍してエスペリア夫人、リダ・ボレリ嬢を凌がうといふ勢になつた。

「伊太利活動俳優列傳」 『活動画報』1919年6月号


『生ける屍』(1913年) 広告

1914年、パスクワリ社広告

第一次大戦前、イタリア映画の勃興期に女優としての活動を開始し、サヴオイア社、チベリ社、イタラ社など多くの映画会社で花形女優として活躍したのがマリア・ヤコビニでした。当時のディーヴァ女優の多くが女王様然としたオーラを漂わせていた中で、マリア・ヤコビニは一味違った柔らかで親しみやすい雰囲気を備えており、町娘役を演じた『さらば靑春』でもそういった個性は発揮されています。

第一次大戦後は他のイタリア女優同様国外へと拠点を求めていくことになります。20年代に苦戦したベルティーニやマコウスカ等と対照的に、マリア・ヤコビニは監督(デュヴィヴィエ、オツェップ)にも恵まれ無声映画末期にも観るべき作品を幾つか残しています。なかでも1929年の『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』は彼女のエモーショナルな表現力を再確認できる優れた作品です。

『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』
(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)より

[IMDb]
Maria Jacobini

[Movie Walker]
マリア・ヤコビニ

[出身地]
イタリア(ローマ)

[誕生日]
2月17日

] 映画の郷 [ 電子工作部:フィルムスキャナーにおけるディフューザーの使用

昨年まとめていた「綺乃 九五式・開発記録」で、写真を撮っていなかったため記事にできなかったコンテンツが幾つかありました。その一つが「ディフューザー」の設定でした。

フィルムをスキャンしていく際に必ず光源が必要となるのですが、ハロゲン/LED電球どちらを使用するにせよ光のムラができてしまいます。それを避けるため光を「散らす(ディフューズ)」仕組みを組みこまないといけない、という話でした。

室内で被写体をストロボ・フラッシュ撮影撮影する際に用いられるのが一般的な「ディフューザー」です。今回は幅一センチにも満たない小さなフィルムのコマを相手にしているため大掛かりなものは必要ありません。調べてみたところ、乳白色で半透明の樹脂かガラス、最悪薄手の白い紙をかませれば良いと分かりました。

Matthias Melchier氏自作の16ミリ用スキャナー(上)と
サンプル画像(下)

上の画像は2015年頃にMatthias Melcher氏が公開していた16ミリフィルム専用自作スキャナーです。フィルムに近い場所に白い紙を置いてディフューザに使用しているのが分かります。スキャン画像(下)を見ると光はきちんと散らばっています。

当初、綺乃九五式では乳白色の樹脂をLED電球とフィルムの間に置いたのですが上手くいきませんでした。ネットですりガラスを探し始めます。スキャナー自作ユーザーの集まるサイトで紹介されていた中国の「Plexiglas」は日本への発送に対応していなかったため断念。米エドモンド・オプティクス社の日本法人が扱っている25ミリ角のディフューザーを購入しました。

2020年8月に交換用で再購入したもの

スキャナーへの組みこみは3Dプリンタを使って固定用の補助部品を作り、すりガラスをはめこんで接着する方法を取りました。フィルムを固定するちょうつがい式の可動部分があるのでそこに貼りつけた形です。

光の拡散が均質となり画像が安定するようになりました。自作スキャナー作家の間で話題になる機会は少ないのですが画質に直結する部分で手間暇かける価値はあると思います。

泉 春子 (1905 – 1998?)

日本・女優 [Japanese actresses]より

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吉村さだ子、明治卅八年九月長崎市生、舞臺生活の後マキノ等持院に入り時代劇に活躍す、マキノを去つて家庭の人となつてゐたが本年阪妻プロに入社「紫頭巾」

『現代俳優寫眞と名鑑』
(1927年11月5日、國民新聞附録)


マキノ~阪妻~東亜へと籍を変えていった女優さん。1928年の『坂本龍馬』に出演するも手元の9.5ミリ版に出演場面は収められておりませんでした。各社競作となった前年の『砂絵呪縛』では、原駒子や鈴木澄子と同じお酉を演じており、同社のヴァンプ女優的な位置づけをされてたのが分かります。

[JMDb]
泉 春子

[IMDb]
Haruko izumi

[出身地]
長崎県(佐世保)

[誕生日]
4月20日

[データ]
8.5 × 13.5cm

澤村春子 (1901 – 1989)

日本・女優 [Japanese actresses]より

sawamura-haruko-autographed-postcard-mSawamura Haruko Autographed Postcard

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

澤村春子、1927年の残暑見舞い

川島実市氏の絵葉書帳より

澤村 春子(川島実市氏の絵葉書帳より)


明治四十三年北海道に生る。大正九年上京して小山内薫の松竹キネマ研究所を卒へて処女映画『路上の靈魂』に出演、後『山暮るる』に出演して退社し田中欽之の下で『春の命』を撮影し大正十二年の末日活に入る。同社では『白痴の娘』『街の物語』『血涙記』『月形半平太』『憂国の少年』最近では『下郎』『轉婚二重』の主演があり日活主腦女優に屬するスターである。趣味は乗馬、琵琶、讀書、三味線、琴、舞踊、の各方面。

『玉麗佳集』(1928年)


本名澤村春子。明治卅四年北海道に生る。裁縫女學校卒業。役所勤めなどの後女優を志し、松竹キネマ俳優學校を經て松竹蒲田に入社。二年の後大正十二年一月より日活に出演す。主な近作は「流轉」「斷魔閃光」「白井權八」等。身長四尺九寸五分。體重十四貫五百目。趣味は三味線、踊り、琴等。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


ある日来客から「沢村春子のことが週刊誌にのっている」と教えられ、あわててその週刊誌を探しましたが、ついに手に入らずじまいになりました。たしか読売とか。それには「昔の映画スター沢村春子が苦労に苦労の末、いまでは自分の故郷近くの津軽の寒村で、うら寂しく一文菓子を子供相手に売っている」というのだそうです。[…]

想像どおり沢村さんは不幸の連続でした。要約すれば親類筋を浮草のように泊り歩き、年をとったのでどこでも使ってくれない、いまは他人の家の手伝いやせんたく物洗い程度の仕事をして、一人ぽっちの私はどうやら生きているが、この先どうなることやら、どうか笑って下さい、と結んでいます。

『髪と女優』(伊奈もと著、1961年)


映画の黎明期、無声映画のスターと云われた女優がいた。
沢村春子
女優にかけた思いを
浅虫で息絶えるまでの人生を、
三人の役者が演じる。

『驟雨激しく』 ―ある無声映画女優の生涯―
2011年6月17・18日青森県「ねぶたの家ワ・ラッセ」で
上演された舞台劇の宣伝文句より


日活が女優に本腰を入れ始めた初期から活動をしていた古参の一人で、1925年の女優揃えでも上座と思われる左端(左上位)に配置される評価を得ていました。切れ長の目でグッと堪えた悲劇調の役柄を得意とし、日活期の松之助作品ヒロイン(1925年『荒木又右衛門』池田富保監督)など20年代中盤の邦画界に功大なり。

『髪と女優』で紙数を割かれて述べられていたように、20年代後半の女優ブームの中で埋もれてしまい一時期は消息不明となっていました。晩年は青森で不遇な生活を送り80年代末にひっそりと亡くなっていますが、その後彼女の生涯を追った舞台劇が制作されています。

[JMDb]
稲田春子

[IMDb]
Haruko Sawamura

[出身地]
北海道

[誕生日]
1月20日

[データ]
8.6 × 13.7cm

c1920 – 9.5mm 『隙あらば』(Indiscrétion)仏トリブレ社 (綺乃九五式 第4回試運転)

「9.5ミリ 成人向け動画」より

WARNING :This page may contain explicit content which may offend some.
You must be over eighteen (18) years old or the age of majority in your jurisdiction to view the content.

警告:これより先は成人向け表現が含まれます。18歳未満の方又は成人向け表現が苦手な方はご退出下さい。

Indiscrétion (Films Triboulet)

9.5mm、10m(約1分20秒)。

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登場人物は女性一人のみ。薄手のネグリジェ姿の女性が起床し、画面奥にある窓の鎧戸を開く場面で始まります。手前に数歩戻ってくると体の向きを変え、鏡に映った自分の姿を見つめます。続いてカメラの位置が変わり、椅子に座った女性が下着を手に取ってはいていく場面の描写となります。足元にストンと落ちるネグリジェ。

04-Indiscretion02

鏡台を前にパフで白粉をはたいている女性の後ろ姿。最初は胸元まで髪を下ろしていましたが、この時点では束ねられてすっきりとまとめられています。下着姿の女性のバストショット。肩ひもがずり下がって乳房がむき出しとなっています。物思いにふけった表情。立ち上がって着替えを終わらせたところでフィルムが終了しました。

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そこまで凝ったものではないにせよ鏡や椅子、鏡台など調度品がしっかりしていて安っぽさがありません。またレースカーテンやシースルーのネグリジェなど透過性の高い小物が含まれることで画面の装飾性が高まっています。着替えの場面を順に撮影したソフトな内容で露出度は低め。それでも字幕を上手く活用し、「着替えを見ている誰か」の存在を匂わせることで背徳的な盗撮の感覚を演出しています。

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都賀 静子/靜子 (1912 – 没年不詳)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Tsuga Shizuko Autographed Postcard
Tsuga Shizuko Autographed Postcard

明治四十五年宇都宮に生る。五歳で河合武雄一派の『月魄』が初舞臺、映畫では國活を振り出しに松竹、東亞と轉々とし何れも重要な子役を勤め上げ更にマキノに移つて一躍スターとなつた。主演『戀の守備兵』『村へ來た呑氣者』『狼火』『鈴蘭の唄』等あり、最近では『愛しき彼』『消ゆる舟唄』に出演してフアンの好評を博している。まだ若いから相當に前途を嘱望されてゐるし本人も早く立派な女優になりたいと念じてゐる。好きなものは映畫、雑誌。嫌ひなものは蛇と蛙。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

昭和2年(1927年)2月23日の日付入り。裏面に「髙島千代」とあり、髙島栄一氏の親族の方が所有されていた一枚と思われます。

無声期のマキノ映画娘役として名を知られるようになりましたが1910年代後半から子役として活躍していた長いキャリアの持ち主でした。この後さらに東活~宝塚キネマへと流れていき30年代半ばに引退。戦後1960年前後に東映作品の老け役で短期間カムバックしていた記録が残っています。

[JMDb]
都賀 静子

[IMDb]
Shizuko Tsuga

[出身地]
日本

[誕生日]
5月18日

[データ]
8.5 × 13.5cm

1917-22 忘れじの独り花(33)ベルント・アルドー Bernd Aldor (1881 – 1950) 独

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Bernd Aldor c1920 Autographed Postcard
Bernd Aldor c1920 Autographed Postcard

1910年代後半に頭角を現してきたドイツ男優さんで、1916~18年頃のリヒャルト・オズヴァルト監督作品常連となりレオンティーン・キューンベルクリタ・クレルモントマンヤ・ツァッツェーワと共演、『ドリアン・グレイの肖像』などで主演を務めました。その後レックス映画社ではルプ・ピック監督の作品に出演、リア・イエンデ等のパートナーとして銀幕に登場しています。

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スイス『キネマ』誌1919年第16号より『世界の鏡』(ルプ・ピック監督)広告

[IMDb]
Bernd Aldor

[Movie Walker]

[出身地]
オスマン帝国(コンスタンチノープル)

[誕生日]
3月23日

[データ]
Photochemie, Berlin. K.121. phot. von A. Binder, Berlin
8.6 × 13.5cm

1917-22 忘れじの独り花(32)マグナス・スティフター Magnus Stifter (1878 – 1943) 墺

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Magnus Stifter c1920 Autographed Postcard
Magnus Stifter c1920 Autographed Postcard

1910年代から父親役などで活躍していたオーストリア俳優。キャリア初期にはアスタ・ニールセン主演で監督作を2本残しており、そのひとつ『恋のいろは(Das Liebes-ABC)』がDVD化されています。

Magnus Stifter and Asta Nielsen in Das Liebes-ABC
『恋のいろは(Das Liebes-ABC)』でのスティフターとニールセン

他にもルビッチの『カルメン』(1918年)やムルナウの『ジェキル博士とハイド氏』(1920年、現存せず)などドイツ映画の重要作に脇役で多く登場してきます。

[IMDb]
Magnus Stifter

[Movie Walker]
マグナス・スティフター

[出身地]
オーストリア(ウィーン)

[誕生日]
1月23日

[データ]
Photochemie, Berlin. K.2230. phot. Mac Walten, Berlin
8.5 × 13.5cm

1917-22 忘れじの独り花(31)ヴィオレッタ・ナピエルスカ Violetta Napierska (生没年不詳)

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

VIoletta Napierska 1921 Autographed Postcard
VIoletta Napierska 1921 Autographed Postcard

フェルン・アンドラに通じる硬質で神経質な雰囲気を漂わせていたのがこちらのヴィオレッタ・ナピエルスカでした。主にリヒャルト・アイヒベルク監督作品に出演し、同監督夫人でもあるリー・パリーの脇に回る形で活動を続けていました。

ある時期のアイヒベルク監督作品には、後にドラキュラ伯爵役で名を上げるベラ・ルゴシも参加しています。リー・パリー主演、ルゴシ&ナピエルスカス助演作『夜の娘』(Der Fluch der Menschheit、1921年)が短縮版で現存しています。

VIoletta Napierska in Der Fluch der Menschheit (1921)
『夜の娘』(Der Fluch der Menschheit、1921年)より

[IMDB]
Violetta Napierska

[Movie Walker]
ヴァイオレッタ・ナピエルスカ

[誕生日]
不明

[出身]
不明

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

[データ]
Verl. Herm. Leiser, Berlin Wilm. 7223. Phot. H.W. Mager, Berlin.
「1921年12月 ミュンヘンにて」

1917-22 忘れじの独り花(30)リィ・ノイマン Ly Neumann (生没年不詳)

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Ly Neumann 1921 Autographed Postcard
Ly Neumann 1921 Autographed Postcard

1910年代前半にハリー・ピール作品の常連として人気のあったルートヴィヒ・トラウトマンが10年代後半に自身のトラウトマン映画社を立ち上げた際、同社の花形として抜擢された女優さん。

それ以前に一作、ローザ・ポルテン(ヘンニ・ポルテンの妹)が共同監督した1918年作品に名前がクレジットされています。1918~20年の数作しか出演が確認されていませんが、クレジットされていないだけで他にも出ていると思われます。

[IMDb]
Ly Neumann

[Movie Walker]

[出身地]
不明

[誕生日]
不詳

[データ]
Verlag Berliner Känstlerbilder, N6645. Photo Kuzelowsky, Berlin W., Kurfürstendamm 216
8.2 × 13.3cm

1917-22 忘れじの独り花(29)ハンナ・リルケ Hanna Lierke (生没年不詳)

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Hanna Lierke Autographed Postcard
Hanna Lierke Autographed Postcard

戦前ポーランド映画に功のあったダニー・カーデン(1884-1942)が最初に自身の映画社を立ち上げた際、その監督作で1918年頃デビューしたと思われる女優さん。

その後リヒャルト・オズヴァルトの映画社を経て、1920年からミュンヘンに拠点をおくバヴァリア映画社で大きな役を振られるようになっていきます。同社作品ではマンフレッド・ノア監督『賢者ナータン』(1922年)が良く知られていますが、ノア監督がその直前に撮った2部作『恐しき新婚旅行(Der heilige Hass)』でヒロイン役を演じていたのがハンナ・リルケさんでした。

Hanna Lierke in Der heilige Hass
『恐しき新婚旅行(Der heilige Hass)』でのハンナ・リルケ嬢

その後も小さなプロダクションに幾つか出演記録があるものの派手なスポットライトを浴びることはなく20年代中旬にフェイドアウトしていきました。

[IMDb]
Hanna Lierke

[Movie Walker]
ハンナ・リルケ

[出身地]
不明

[誕生日]
不詳

[データ]
Photochemie, Berlin. K.2494. phot. Atelier Walten, Berlin
8.7 × 13.6cm

1930年 『東亞週報 第二八六號』

Toa Weekly No. 286
Toa Weekly No. 286 (October 17th, 1930)

昭和五年(1930年)10月半ばの東亞週報でオールスター大作『無憂華』公開時の一冊。表紙は同作からのスチル写真。モデルとなった故・九条武子夫人を称える菊池寛・久米正雄・直木三十五の歌が添えられています。

『無憂華』の粗筋、配役紹介に加えて主演・三原那智子さんの紹介とそのメッセージ「高鳴るわが胸」が掲載されています。本作以外に映画出演記録が見当たらず経歴が不明だったため略歴が助かりました。海外作品ではフリッツ・ラングの『スピオーネ』が紹介されており、裏表紙は歴史冒険譚『八荒流騎隊』の予告。

1930-toa-weekly-no-286-031930-toa-weekly-no-286-04

『スピオーネ』の物語紹介の途中にリバイバル上映会の告知が挟まれています。

『明治二十八年・本場所 東京大相撲』。昨年国立映画アーカイブで上映されていた『明治二十八年の両國大相撲』(1900年)と同一作品。現在のスポーツ化した大相撲とは別物で、見世物と神事の両面が絡みあった独特な圧の作品でした。1930年頃すでに歴史的重要作として認知されていた様子が伺えます。

1917-22 忘れじの独り花(28)ミア・パンコー Mia Pankau (1891 – 1974) 独


「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Mia Pankau Autographed Postcard
Mia Pankau Autographed Postcard
オランダ出身の映画監督ヤープ・シュパイアー(Jaap Speyer)氏を夫に持ち、1910年代に同氏作品に多く主演していた女優さん。

世に聞こえたオランダ出身監督ヤープ・シユパイアー氏の夫人でもあるミア・パウコー嬢は西プルシアの小さな町フリートラントにて生を受けた。同嬢の才能を最初に見出したのはオイゲン・イッレーシュ氏で、同氏は孃と契約を交わし『最新報告』(1917年)の女主人公役を委ねた。次いで嬢はグルウンバウム社、アルトフ社と契約、ミア・パンコー映画シリーズで名を上げる。最初のヒット作となったのはアルトフ社で撮られた『リリィとその良人』であつた。

世界映画辞典・1932年度版(フランク・アルノー編)
Universal Filmlexikon 1932 (Europa),
Frank Arnau (Hg.), Berlin: Universal Filmlexikon GmbH, 1932

1924年、独歴史映画の秀作『ヘルマンの戦い』ではヒロインの一人グントヒルトを好演。

Mia Pankau in Die Hermannschlacht (1924)
1924年公開『ヘルマンの戦い』(Die Hermannschlacht)より

また1928年の『妖花アラウネ』にも出演。同作は科学者(パウル・ヴェゲナー)が死刑囚の精子と売春婦の卵子を使って人工生命(ブリギッテ・ヘルム)を作り出す設定でした。冒頭で科学者に騙され、卵子目的で命を奪われる哀れな娼婦を演じていたのがミアさんでした。

Mia Pankau in Arlaune (1928)
1927年公開『妖花アラウネ』(Arlaune)より

1930年代となり、良人が監督した『南米向け踊り子募集』(Tänzerinnen für Süd-Amerika gesucht、1931年)でトーキーデビューを飾るも同作が引退作となりました。20~30年代だけ見ていると正直パッとしませんが女優業の本体は1910年代にあり、その実態は多くの失われたフィルムの先に見えなくなってしまっています。

[IMDb]
Mia Pankau

[Movie Walker]
ミア・パンコー

[出身地]
東プロイセン(フリートラント)

[誕生日]
2月14日

[サイズ]
8.7 × 13.4cm

[データ]
Verl. Herm. Leiser, Berlin-Wilm. 4356. Photogr. Max Lutze.

1917-22 忘れじの独り花(27)リタ・クレルモント Rita Clermont (1894 – 1969) 独


「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Rita Clermont 1910s Autographed Postcard
Rita Clermont Autographed Postcard

1910年代初頭から地方の劇場で女優として訓練を積み、第一次大戦中に上京、映画女優としてのキャリアを踏み出しました。娘役として人気があり、当初の軽喜劇路線から次第にジャンルを広げ始めミステリー物やメロドラマ、ホラー作品にも進出していきました。デビュー当初はオスカー・メスター社と契約、その後ノイトラール社を拠点としていきますが、デクラ社やリヒャルト・オスヴァルト社など多くの映画社に出演記録があります。

Ririta Clermont 1917 Neutral Film Ad
1917年スイスの映画誌『キネマ』掲載のノイトラール社広告。
アスタ・ニールセンやレオンティーヌ・キューンベルグと並ぶ
稼ぎ頭だった様子が伝わってきます。
1921年頃を境に人気は下り坂となり、以後は脇役に回って1924年映画界を離れました。現在思い出される機会の少ない女優さんながらもヘッダ・ヴェルノンと並びドイツ映画が花開き始めた時期を支えた先駆者の一人でもあります。

[IMDb]
Rita Clermont

[Movie Walker]

[出身地]
ドイツ(レーゲンスブルク)

[誕生日]
3月4日

[データ]
Photochemie, Berlin. K.161. Bildnis von A. Binder, Berlin

[データ]
8.5 × 13.5cm

1917-22 忘れじの独り花(26)マリア・ヴィダル Maria Widal (生没年不詳) デンマーク


「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Maria Widal Autographed Postcard
Maria Widal Autographed Postcard
1910年のアスタ・ニールセン銀幕デビューはデンマーク国内のみならず全世界的な話題を呼び、同嬢は1912年に拠点をドイツへと移し個性的な活動を展開していくこととなりました。この展開を支えたのが夫でもあったウアバン・ガーズ監督です。

同監督は1916年までニールセン短編シリーズを手掛けておりましたが、夫婦仲の悪化に伴い共同作業を解消、1917年からサチュルヌ映画社で再出発を図ります。新シリーズのヒロインとして抜擢されたのがマリア・ヴィダルという無名の新人女優でした。

Maria Widal in Die Gespensterstunde (1917)
『丑三つ時』 (Die Gespensterstunde、1917年)
現存する『丑三つ時』 Die Gespensterstundeではニルス・クリサンダーと共演。しかしニールセン程の成功を収めることは出来ず、1918年頃までサチュルヌ社に作品を残し大戦終了後に姿を消していきました。
Luzzy Werne01
1914年デンマーク『フィルメン』誌より
現代のメッサリナ』広告での「Luzzy Werne」
Maria Widal in Ned med våbnene (1915)
『武器を捨てよ!』(1915年公開、
ノルディスク社、ホルガー=マドセン監督作品)
主人公の友人である男爵夫人役として登場
(左から二番目のティアラ姿の女性)
1917年より前に「マリア・ヴィダル」が活動していた記録はありません。ドイツ的な要素を強調していたにも関わらず、その正体はデンマーク初期映画でLuzzy Werren(或いはWerne)として活躍していた女優さんでした。ガーズ監督がニールセンとの関係解消後、同郷の知己だった中堅女優を「ロンダリング」してドイツで再デビューさせたのが実際だったようです。

[IMDb]
Maria Widal

[Movie Walker]

[出身地]
不詳(推定デンマーク)

[誕生日]
未詳

[サイズ]
8.6 × 13.5cm

[データ]
Film-Sterne 112/3 phot. Nicola Perscheld Berlin W. 9

1917-22 忘れじの独り花(25)クララ・ヴィート Clara Wieth (1883 – 1975) デンマーク

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Clara Wieth 1910s Autographed Postcard
Clara Wieth (Clara Pontoppidan) c1920 Autographed Postcard

1910年に映画デビュー。当初はレジア芸術映画社を拠点とし『ドリアン・グレイの肖像』や 『大都会の誘惑』(いずれも1911年)にヒロイン役で登場、若き美青年俳優W・スィランダのデビューに立ち合いました。すぐにノルディスク社に移りオーガスト・ブロム監督(『血を吸う踊り子』1912年)やホルガー・マドセン監督作品で重用され、同時期にスウェーデンでもスティッレルやシェストレム初期作でヒロインを務めます。

1920年前後にかけ出演ペースが落ちていくものの、カール・テオドア・ドライヤーの初期作『むかし、むかし』(1922年)の美しく傲慢な姫君役など北欧映画史の希少な瞬間を演じました。

Clara Pontoppidan in Der var engang (1922)
『むかし、むかし』(1922年、カール・テオドア・ドライヤー)

1920年に再婚で名字が変わります。以後はクララ・ポントピダンとして活動。20年代半ばに映画界を離れ舞台に移りますが、二次大戦後に復帰、主演作を挟み70年代までデンマーク映画を支え続けていきました。

クララ・ヴィート名義のサインは名字変更前の1910年代と断定して良さそうです。

Clara Wieth in Filmen (1915)
デンマークの映画誌『フィルメン』
1915年度第10号の紹介記事

[IMDb]
Clara Pontoppidan

[Movie Walker]

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
4月23日

[サイズ]
8.6 × 13.5cm

[データ]
K.136. (Photochemie, Berlin)

1917-22 忘れじの独り花(24)リア・ヴィット Ria Witt (1896 – ?) 独

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Ria Witt c1919 Autographed Postcard
Ria Witt c1919 Autographed Postcard

1896年、ドイツ西部のドルトムントにほど近い町ヴァッテンシャイト生れ。本名はマリア・ヴィトリッヒ(Maria Wittlich)。食料品店を営んでいた両親を幼い時から手伝っていましたが、18歳の時首都ベルリンに出て女優として自活を目指します。

1915~16年頃の動向は不明。1917年から本名を縮めた「リア・ヴィット」名義での映画出演記録が残っています。この後アトランティック映画社と契約、1919年に「リア・ヴィット・シリーズ」の形で主演作品が次々と公開されていきました。

Ria Witt in Kinema (Zurich, 1919) No15
スイスの映画雑誌キネマ1919年4月12日付 第15号より、アトランティック映画社広告

彼女の出身地ヴァッテンシャイトにも映画館があり、公開時には町をあげて盛り上がっていたそうです。しかしこの主演シリーズのみで女優業を引退、20年代以降名を忘れられていく形となりました。総出演作品数が10作程度とされており、現存作品は確認されておりません。それでも2014年に地元ヴァッテンシャイトの郷土博物館で小規模の回顧イベントが開かれていた話が独紙で伝えられています

[IMDb]
Ria Witt

[Movie Walker]

[出身]
ドイツ(ヴァッテンシャイト)

[データ]
1522. Bildnis von Anny Eberth, Berlin.

1917-22 忘れじの独り花(23)テア・ザンドテン Thea Sandten (1884 – 1943) 独

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Thea Sandten 1919 Autographed Postcard
Thea Sandten 1919 Autographed Postcard

1912年に女優デビュー、独ミュートスコープ、独ビオスコープ、独ヴィタグラフ社、伊ミラノ社、エイコ映画社など多くの映画会社で主演、助演のキャリアを積み重ねていきました。現存作品の一つが『ホフマン物語』(1916年、リヒャルト・オズヴァルト監督)で、三部構成の第二部でヒロインのジュリエッタを演じています。

Thea Sandten in Hoffmanns Erzählungen  (1916)
1916年『ホフマン物語』(Hoffmanns Erzählungen)より

また2017年に発売された4枚組DVDセット『カフカ、映画に行く(Kafka geht ins Kino)』で『テオドール・ケルナー』(1914年)を見ることができるようになりました。『カフカ、映画に行く』は古くから有名な研究書で、作家の手紙や日記から当時見ていた映画を特定し、カフカ小説への影響を論じた書籍です。DVDはカフカが見た映画で現存作品を集めた内容です。

テアさんは『テオドール・ケルナー』で主人公の詩人の妻となる女性を演じていました。格別演技が上手い訳ではないのですが、大きな目鼻立ちを一杯に使ってみずみずしい感情表現に成功しています。

Thea Sandten in Theodor Körner
1914年の『テオドール・ケルナー』(Theodor Körner)より

その後自身の映画会社を設立するも大きな話題となることはなく20年代になって忘れられていきます。1930年代末、3度目の結婚の相手は自身と同じユダヤの血が流れた男性でした。ベルリンにとどまり続けた夫婦は迫害の対象となり、1942年末にアウシュビッツに送られ翌年冒頭に殺害されています。

[IMDb]
Thea Sandten

[Movie Walker]

[出身地]
ヴロツワフ(現ポーランド)

[誕生日]
6月30日

[データ]
Photochemie, Berlin. K.1456. phot. Willinger, Berlin.