1922年 – 上方歌舞伎俳優 書画帖

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1922年に大阪で活躍していた歌舞伎役者(新派よりの俳優含む)、計13名の書画をまとめた書画帖。サイズは縦27.0×横18.0センチ、全て見開きで書かれておりそれぞれの大きさは27×36センチになります。

短期間松竹と帝キネ作品に出演していた二代目市川荒太郎を除くと映画に直接関わってはいないようです。本サイトの方向性からは若干外れますが20年頃は映画と歌舞伎がまだ陸続きだった感触があり、『芝居とキネマ』『劇と映画』『演藝と映画』などの大判雑誌が売れていた時代でもありました。


實川延若(2代目、俳名:正雁、1877 – 1951)

本名天星庄右衛門。俳名正雁。明治十年大阪に生る。明治廿年十月浪花座にて實川延二郎と名乗り『曾我』の河内村庄左衛門、『菊畑』で奴延平を勤めたのが初舞臺。當り役『恨鮫鞘』の八郎兵衛、『近八』の盛綱『乳房榎』の三役等。雁治郎と共に浪花劇団の大立者。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


尾上多見蔵(3代目、前名尾上多見之助、1866 – 1927)「清風一味」

優は慶應二年一月六日京都四條に生る。父は元紀州の家人吉川東藏、母は大西氏なり。初め家人と共に觀劇に行きしが緣となり、五歳の時故人阪東彦三郎に望まれて養子となり、京都南座にて彦三の松王、重太郎の源藏に寺子屋の小太郎を勤めしが初舞臺なり。當時阪東鶴之助と呼ぶ。同年九月彦三郎と共に上京せしも、當時優は非常の悪戯者にて養母の氣受惡しく、かたがた藝道修業の爲とあつて八歳の時再び歸京して子供芝居又は大歌舞伎の子役に出勤し、同時に彦三郎を不緣として改めて尾上多見藏の門に入り多見之助と改名す。廿一歳の時初めて大阪へ來り多く立役を勤めて評判よく、廿三歳にして角座に於て名題昇進し、爾来引續き立者として道頓堀の大歌舞伎に出勤しつゝあり。先年田村成義氏より彦三郎襲名の儀を勸められしも優は現今の劇壇名のみ大にして其實之れに伴はざる者多きを惡み之を謝絶せしと云ふ。才女おみつ(慶應三年生)と呼び、純(三十年生)嘉子(三十一年生)壽子(三十五年生)の三子あり。

『日本俳優鑑』(1910年、演藝畫報社)


喜多村綠郎(初代、1871 – 1961)「鶏頭いろふかく 撓みもや來る」

本名喜多村六郎、俳名綠樹又は小松と云ふ明治四年日本橋の藥種問屋に生る明治廿五年七月有樂館の素人芝居に北村みどりと名乗り『明治才子戀實』の主人公役の妹が初舞臺當り役として不如帰の浪子、侠艶錄の力枝、琵琶歌の里野等は定評のもの。現在新派の名女形として押しも押されもせぬ巨匠藝のうまさは第一人者。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


不明


岩井粂三郎(5代目、俳名:燕子、1882 – 1945)

優は明治十五年六月二十八日の出生にて、四代目粂三郎の實子即ち八代目岩井半四郎の孫に當る。六歳の時歌舞伎座に於いて團十郎の河内山に子役を勤めしが初舞臺にて紀之丸と名乗れり。十三歳にして明治座にて故人左團次の明智三羽烏の安田作兵衛に伜を勤め左團次の口上にて紀之丸改め久次郎となり、其後東京座の芝翫の異風の行列の時、五代目粂三郎を襲ぎ成駒屋の口上にて名題に昇進し同座解散後一時宮戸座へ出勤なせしが先般某有力者の盡力にて歌舞伎座座附俳優となり近頃は市村座に出勤して女形を勤む。股肱と賴みし松之助歿後岩井家の運命を双肩に擔ふべき身の兎角健康勝れざるは誠に遺憾なり。然れども道に熱心なる優は往々病體を忘れて心を技藝に專らにするに至る、優が近來大に其の伎倆を上たるも無理ならずと云ふべし。元西川姓、後淺田と改む。妻てい子大に内助の効あり。

『日本俳優鑑』(1910年、演藝畫報社)


嵐巌笑 (初代、俳名:菊童、1862 – 1930) 「松壽千秊」

本名北村保次郎。俳名菊童。文久元年京都に生る。初め實川都若と名乗り、明治二年の春九歳の時祇園町四條北の芝居にて初舞臺。後四世嵐璃寛の門に入り明治十年巌笑と改名。當り役板額、實盛、お園、政岡等。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


小織桂一郎(俳名:子楊、1870 – 1943) 「壽者福之首」

本名西巻行藏號子楊明治二年新潟縣に生る。セント・ポールス、スクール(立教大學の前身)を卒業。明治二十四年七月東京淺草中村座に初出演。其頃創始せられたる川上音二郎の所謂書生芝居一座に投じ、爾来今日迄劇界に終始し、河合武雄と共に公衆劇團を組織せる事もあり、當り役は「誓」の塙綱造、「月魂」の久松喬等。讀書、旅行を好み酒は洋の東西を問はず。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


市川荒太郎(2代目、俳名:眼童、1892 – 1925)蛸あげ

本名:市川浩三
生年月日:明治廿五年十一月廿三日
出生地:大阪市西區新町南通り三丁目
何代目:二代目
屋號:三河屋
俳名:眼童
明治三十年六月大阪辨天座にて市川保太郎と稱して「鈴木主水」の子市松を勤しが初舞臺なり

『現代俳優鑑』(1918年、演藝畫報社)


中村林左衛門(俳名:雁洲、1868 – 没年不明)

本名:帯谷熊太郎
生年月日:慶應三年三月十一日
出生地:大阪市
何代目:初代
屋號:成駒屋
俳名:雁洲
明治七年九月大阪道頓堀竹田の芝居にて「寺子屋」の岩松を勤めしが初舞臺なり
明治四十四年五月道頓堀浪花座にて「布引」の三段目、雁治郎の實盛にて馬丁左吉を勤め三昇改めて林左衛門と名乗る

『現代俳優鑑』(1918年、演藝畫報社)


嵐橘三郎(5代目、前名:尾上喜久太郎、1891 – 1935)

優は明治十年二月十二日京都四條の町家に生れた。高等小學校を卒業して後初めは醫者になる積りであつたが、嵐芳三郎が親戚に當る所から不圖俳優になつて見る氣になり、十五の歳に芳三郎の弟分として芳太郎と名乗り、京都戎座で初舞臺を踏んだ。其の後は始終京都の各座に子役で出勤している中に、尾上卯三郎に見込まれて其の養子となる事になり、三十七年の五月道頓堀の辨天座で雁治郎、玉七、璃珏、卯三郎と云ふ芝居で尾上喜久太郎と改名した。今は朝日座の延二郎、吉三郎、我童、成太郎一座の若手芝居に加入して、多く若女形を勤めてゐる。

『日本俳優鑑』(1910年、演藝畫報社)


市川右團次(2代目、俳名:家升、1881 – 1936)

本名市川右之助。俳名家升。明治十四年大阪に生る。先代市川左團次の義兄齋入の息。明治十九年角の芝居で伴藤右之助と稱し『先代萩』の三股川の場で太鼓持ちを勤めたのが初舞臺。明治四十二年中座にて四代目右團次を襲名。舞踊を最も得意とし関西第一の踊り手と評さる。當り役鯉摑みの花若丸と志賀之助、吉野山の又五郎狐、お岩と小平等、親譲りのケレン物を得意とす。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


尾上卯三郎(2代目、俳名:濤昇、1860 – 1928)

本名:木下卯三郎
生年月日:萬延元年二月廿二日
出生地:岐阜県岐阜市久屋町
何代目:二代目
屋號:音羽屋
俳名:濤昇
明治六年九月一日大阪道頓堀若太夫座にて尾上卯多市と稱して「伏見戰争」の仕丁と町人を勤めしが初舞臺なり
同九年四月同松島大西芝居にて二代目卯三郎と改名し「薄雪」の半無精の國行、「吃又」の修理之を勤たり
同十七年十月同道頓堀浪花座にて「加賀騒動」の鳥居又助、「二人新兵衛」の若旦那を勤めて名題に昇進す

『現代俳優鑑』(1918年、演藝畫報社)


市川箱登羅(2代目、1867 – 1944)

本名田村榮吉。俳名箱虎。慶應三年東京淺草に生る。明治十二年先代壽美藏の門に入り登美六と名乗り、市村座にて初舞臺。明治二十一年九代目團十郎に認められ二代目箱登羅の名跡を許さる。同二十三年下阪し三十二年十月角座にて名題に昇進端役、三枚目を得意とし、性質極めて實直。當り役、『あかね染』の下市の十兵衛等を得意とす。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年1月、冨士新年號附録)


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