環 歌子/玉木 悦子 [Tamaki Utako/Etsuko]

女優別絵葉書ギャラリーより

Tamaki Utako/Etsuko 1920s Autographed Postcard

本名靑木ちよ、明治三十四年十月、北海道函館に生る。大正七年東京少女歌劇に入り大正十年國活入社、同年末マキノに入社、同十三年六月東亞に轉ず、國活の「畫家とモデル」が處女出演映畫で「彼女の運命」「桐の雨」「情熱の炎」等が代表的映畫。柄から云つて勝氣な女が適はしい。

『現代俳優かがみ』(1925年)


本名靑木千代、明治三十四年十月凾館に生る。大正七年東京少女歌劇に入り同十年國活に移り更にマキノに轉ず、同十五年東亜に鞍替へしたが色々問題を起して復びマキノに戻る。當り役は勝氣な女がよく代表映畫は『彼女の運命』『燃ゆる渦巻』『平癒の嘆き』『戀の丸橋』『情熱の炎』等がある。一時環歌子と改め後今の名となる。兎に角マキノの主腦花形として相當に賣出しファンの人氣を博してゐる。最近では中根龍太郎、小宮一晁共演『お江戸日本橋』の製作品がある。

『玉麗佳集』(1928年)


本名は河野千代子、明治三十四年十月二十八日凾館に第一聲をあげ、女學校を卒業後上京、駒形劇場の東京少女歌劇に入り舞臺を初めて踏みそれより國活に入社、數多の主演映畫を環歌子と名乗り主演し後京都市マキノに入社大正十五年七月東亞甲陽に入社し後退社、昭和二年マキノ輝子休演のためマキノ側の招聘を受け再びマキノに入社し今日に至る。主なる主演映畫に「想夫憐」「生きる惱み」「畫家とモデル」(國活作品)「三つの怪事件」「火の車お萬」「燃ゆる渦巻」「雲母坂」(マキノ初期)「平癒の嘆き」「若さよさらば」「馬賊の唄」(東亞作品)「鳴門秘帖」「生さぬ仲」「裏切る蛩音」「紅手袋」等。身長は五尺二寸、體重は十二貫二百匁。趣味は日本もので現代物でないものは大抵持つて居る。嗜好物は水たき、支那料理。現住所は京都市間之町七條角河野方に河野正一氏夫人として居を持たれてゐる。

「玉木 悦子」
『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映畫世界社、1928年)


本名河野千代子。明治卅四年、凾館市に生る。女學校卒業後上京して劇界に入り、大正十年より映畫へ轉じ、各社へ出演。昭和五年松竹京都撮影所に入社。主な近作は「松平長七郎」「關の彌太ツペ 」等。身長五尺二寸。體重十二貫二百目。日本趣味。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(1931年)


1920年代中盤~後半、マキノ~東亞甲陽~河合を中心に活躍された女優さんで初期の阪妻作品(『火の車お万』『雲母阪』『雄呂血』)でもお馴染みです。

『火の車お万(火車お萬)』(1928年、河合)
スチル写真

 河野夫人こと環歌子は僕より二つ三つ年上で、鼻のツンと高い、目尻の少し吊上がった、いかにも時代劇にふさわしい顔立ちで、五尺に足りない小柄だが、スクリーンに映ると、堂々たる貫禄があった。気の強い人で、僕とは始終衝突したが、根はサックリした性格で、喧嘩しても後を引くということはなかった。

 「火の車お万」の中に、環歌子のお万が寝ている部屋へ、若い阪妻のやくざが、そっと忍び込む場面がある。その時の環の寝顔の美しさと、阪妻の、裾を端折って、すらりと伸びた素足の美しさは、よく仲間の話題になったものだ。

『百八人の侍 : 時代劇と45年』
八尋 不二(朝日新聞社、1965年)


当たり役の一つが『火の車お萬』。1923年にマキノで演じた後、河合映画に移った1928年の移籍第一弾でもお萬役に挑戦しています。このリメイク版については一枚スチル写真を所有。普段はツンと澄まして表情を変えるのも面倒な雰囲気を漂わせながら、一旦スイッチが入ると魂が氷のように燃え出して尋常ならざる殺気を放ち始める…玉木悦子/環歌子という女優の特異性(海外も含めてあまり例がない)が良く伝わってくる写真です。

ちなみに同時期に河合映画に入社したのが脚本家・八尋不二氏で、同氏による回想録『百八人の侍』には興味深いエピソードが幾つも収録されています。

[JMDb]
環歌子

[IMDb]
Utako Tamaki

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