ジライ・イレーン/イレーヌ・ド・ジレイ Zilahy Irén (1904 – 1944) と『胡椒娘/パプリカ』(1933年)&『部屋を探す女』(1937年)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る初期ハンガリー映画(10) & サイン館・ハンガリー より

c1926 Zilahy Irén Autographed Postcard
キネマ週報1936年3月6日付 第264号より

1936年(昭和11年)2月、大阪松竹座で『胡椒娘(パプリカ)』と題された映画が封切りされました。日本でのプロモーション戦略はアリス・ホワイトの『高速度娘』シリーズに近い感じで、歌って踊れるモダンな若手女優とその健康的な「エロチシズム」を前面に押し出したもの。ただし他の同系統作品と違い『胡椒娘(パプリカ)』の製作国はフランスで、しかもイレーヌ・ド・ジレイ(あるいはイレーヌ・ド・ジラーイ)として紹介された主演女優はハンガリー出身でした。

『演劇生活』誌 1927年 第52号より

ジライ・イレーンは1904年生まれ。1924年から舞台の活動を始め、ベテラン俳優フェケテ・ミハーイらと共に地方(現在はルーマニアに位置するアラド、オラデア)で巡業公演を行う。この時に『ノタス中尉』(Nótás kapitány)という3幕物のオペレッタでヒロインを演じて話題になりました。

「演劇生活(Színházi Élet)」誌 1928年第32号 表紙(左)と『古き夏(A régi nyár)』紹介ページ(右)

1927年にはブタペストの劇場と契約、ホンティ・ハンナを主演に据えた『古き夏(A régi nyár)』で準ヒロインを演じ知名度を全国区に広げていきました。1928年末に初めて『演劇生活』誌の表紙を飾っています。

『首都新報(Fővárosi Hírlap)紙 1929年5月1日付
芸能欄での『金の孔雀(Aranypáva)』紹介

歌と踊りを武器としていたジライさんにトーキー時代の到来は追い風となりました。1929年にブタペストの劇場でヒット作となった『金の孔雀(Aranypáva)』が舞台版キャストのままで映画化され、ジライさんは映画女優デビューを果たします。

更なる飛躍を果たしたのが『胡椒娘(パプリカ)』でした。元々はドイツの舞台劇(『結婚に飛び込んでみれば/Der Sprung in die Ehe』)が原作で、1932年にドイツ語版映画が製作・公開され、翌年、キャストを変えた別言語バージョンが作られています(パブストの『三文オペラ』等と同パターン)。オリジナル独版以上に後発の仏語版が高い評価を得た珍しいパターンになりました。

『胡椒娘/パプリカ』(1933年)でのジライ・イレーン登場場面
仏リマージュ誌 1933年1月 第91号表紙

公開直後の雑誌記事によると一ヶ月半の準備期間があって、ジライさんはフランス語を猛特訓し撮影に挑んだそうです [1]

2025年現在、女性の肌の露出を売りにした(=肉体美を商品化していく)この手の作品は評価しにくい状況になっています。それでも、長年ハリウッドが独占していたジャンルに外国作品が参入し一定以上のインパクトをもたらした点で『胡椒娘(パプリカ)』は興味深い一作です。

成功の要因の一つは監督の選定。米国で十分な実績を残したフランス人監督(ジャン・ド・リミュール)を起用、抒情的ではあっても冗長になりやすいフランス流の描写を排し、ハリウッド型のスマートで小気味よい語りに振り切ったことで国際的な評価に対応できるレベルに仕上げてきました。

また主演にフランス人女優を選ばなかったのも吉とでました。演技力や歌唱力、見た目でジライさんを上回る人材を見つけようと思えばフランスでもできたはずです。ただし、当時の(現在でもそうですが)フランスはカトリックが深く根付いた国であり、肉欲や性描写のありかたは厳しめに規定されています。そういった環境で育てられた女優を抜擢しても、『胡椒娘(パプリカ)』で要求されている表現には届かなかったと思われるからです。

ハンガリーやチェコといった東欧の国はその点やや特殊なんですよね。非キリスト教的な価値観や感覚が根深く残っていて、社会や文化が欧米化されているように見えても実際は外面だけ置き換えられているだけだったりする。チェコ映画だとこういった要素が奇想やファンタジーの姿を取って再結晶化されやすいのに対し、ハンガリーでは特異なセクシャリティーの形で顕在化しやすい傾向があります。無声映画の時代にヴィルマ・バンキーやリア・デ・プッティといったハンガリー出身女優が目覚ましい活躍を見せたのは偶然ではなく [2] 、ジライ・イレーンという女優もまた同じ流れに位置付けられるのだと思われます。

『部屋を探す女』
Úrilány szobát keres (1937) より

『胡椒娘(パプリカ)』の後も仏独の作品に幾つか主演、国際的舞台で十分な実績を残して1930年代中盤に凱旋帰国。活動拠点を再びハンガリーに戻します。1937年、彼女にとって初の(そして最後となる)ハンガリー語のトーキー作品『部屋を探す女』に主演。彼女が得意としていた軽めのラブコメで、作品の前後半それぞれで一曲ずつ歌声も披露していました。

帰国後のインタビューで、ジライさんは「故郷」と「自分の居場所」の二つの意味を込めて「自分には”家”が必要なの」という発言を残していました [3] 。1937年に高名な植物学者のベネデク・ラーズロー氏と結婚し舞台と映画から引退。ブダペストのヒムフィ通りに邸宅を購入し、広い庭に数々の植物を植え、犬や猫に囲まれた静かな生活を送り始めます。

しかしながら国際状況の悪化に伴いハンガリーは枢軸国側として参戦(1941年)。ブタペストは連合国を敵にした攻防戦の舞台となっていきます。1944年4月3日、アメリカ軍による大規模な空襲が実施され、爆撃機から落とされた爆弾のひとつがヒムフィ通りの自宅を直撃、ジライさんは防空壕にいた母親と共に亡くなっています。外出中だった夫のベネデク氏は帰宅後に惨状と直面、この後立ち直ることができず翌年に拳銃自殺で妻の後を追っています。

ジライさんは元々俳優の両親のもとに生れているのですが、父母のどちらも現在のルーマニア西部にあたるオラデアの出身だったそうです。その縁もあり、ジライさんも当初はオラデアやその南方に位置する町アラド、さらにその東側のトランシルヴァニアで舞台活動を始めています。今回入手した絵葉書はこのキャリア形成期(1926年頃)の一枚で、メッセージ&宛名書き面に「アラド(Arad)」の文字が残されています。

[IMDb]
Irén Zilahy

[Movie Walker]
イレーヌ・ド・ジラーイ

[脚注]

[1] “Six semaines avant d’afronter la caméra… et le micro… aux studios Francoeur, elle ignorait tout de notre langue. Elle a fait ce tour de force de l’apprendre en ce bref délai très suffisamment pour parler et chanter d’une manière délicieuse.” L’Image No.91 1933 Janvier 1er.

[2] 「ハンガリイは、演劇及び映画の領域に於いて數多くの逸材を出してゐる」『新映画論』 (飯島正、西東書林、1936年)

[] “Bármennyit járok-kelek is a világban, szükségem van egy otthonra. Azért vettem meg ezt a házat.” Cited at Kiss Manyi kecskét tartott, Tolnay Klári az ablakában nevelte a paprikát (Papp Noémi, 2014. Április 15))


絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る初期ハンガリー映画