マリア・テナジと『ザレ』(”Զարե”、1927年・アルメニア映画公社)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [05]

Maria Tenazi 1927 Russian Postcard


本名マリア・アレクサンドロヴナ・タデヴォシアン(Мариам/Мариа Александровна Тадевосян)。国籍はアルメニアでロシア帝国~ソ連市民。

1903年にバクー(現アゼルバイジャン首都)で生れる。フィルムのロケ地で探してアラヴェルジの町を訪れたバルスキー監督の目に留まり、1924年グルジア国営活動会社作品の端役で女優デビュー。

1926年、アルメニア映画公社第一回作品となる『ザレ』で主演のクルド娘役を務める。しかし次作『雲の隠れ家』(1928年)のロケ撮影中に風邪をこじらせ女優業を休止、療養に入るも1930年に27歳で逝去。

「彼女がクルドの女性服に身を包み、大きな銅の水瓶を肩に担いで泉へ向かう場面では、生まれてこの方ずっとクルドの牧草地で過ごしてきた人のように見えた」(『ある俳優兼監督の回想録』、アモ・ベク=ナザリアン、1968年)

アモ・ベク=ナザリアン(Amo Bek-Nazaryan/Համո Բեկնազարյան)監督はイワン・ペレスチアーニと並んで1920年代初めのグルジア国営活動会社隆盛に功のあった人物です。元々アルメニア出身で、1920年代中盤にアルメニア映画公社が結成されるとその中心となり同国初の長編映画『ナムス』(Намус、1925年)を完成させました。

『ナムス』のスタッフや俳優を母体に制作した長編第2弾が『ザレ』で、主演に抜擢されたのがアルメニア人女優マリア・テナジでした。羊や牛を飼って暮らしているクルドの小さな集落を舞台とし、相思相愛の男女が族長息子の横やりで引き裂かれていくメロドラマを描いた一作です。

『ザレ』でのマリア・テナジ


出演しているのはクルド人俳優ではありませんでしたが生活風習や衣装、価値観を丁寧に反映させており、現在のクルド人監督(Mizgîn Müjde Arslan, Kazim Oz)からも「映画史上初のクルド映画」と評価されています。

ソ連映画の一部として製作された経緯もあって中東のクルドの人々が『ザレ』を鑑賞できる機会はありませんでした。状況が変わったのがこの10年程で、2011年3月にイスタンブール映画祭で上映、また2016年には公開90年を記念した高画質リストア版がアルメニアで上映されるなど再評価の機運が高まっています。

マリアさんは若くして亡くなり、出演作が少なく(計8作)メディアの露出が少なかったこともあって伝記データや逸話がほとんど残っておりません。数少ない例外としてベク=ナザリアンが戦後に発表した『ある俳優兼監督の回想録』(«Հուշեր դերասանի և կինոռեժիսորի»、1968年)に『ザレ』撮影時のエピソードが紹介されています。


[IMDb]
Maria Tenazi

[出身地]
ソ連(アゼルバイジャン/バクー)

[生年月日]
5月1日

[リンク]
2011年、イスタンブールでの上映会のリポート(アルメニア語)
2016年、映画公開90周年にアルメニアでリバイバル上映された際のリポート(アルメニア語)

マルコ・ド・ガスティーヌ、昭和2年(1927年)の直筆書簡 Marco de Gastyne (1889 – 1982) 仏

「『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』[La Merveilleuse vie de Jeanne D’Arc, 1929]」より

貴殿の手紙を此の地にて受け取ました。仕事の都合でまだ2、3週間程足止めの予定です。巴里に戻り次第電話にてご連絡させていただきますので、待ち合わせの日取りを決めつつ面白そうな話でも出来たらと思っています。ご不在やむなきようであれば次に巴里に来られる予定日を教えていただければ調整させていただきます。

親愛なる
マルコ・ド・ガスティーヌ

Cher ami,
Votre lettre m’atteint ici, où mon travail me retiendra encore une ou deux semaines. Aussitôt que je serai à Paris, je vous appellerai au téléphone, pour que nous prenions rendez-vous et que nous parlions de ce qui vous intéresse. Si vous devriez alors être absent, avertissez-moi de votre prochain passage à Paris, et espérons que nous pourrons nous atteindre.
Croyez-moi, cher ami, bien sincèrement votre,

Marco de Gastyne

マルコ・ド・ガスティーヌ監督が作家ポール・ブラック(Paul Brach、1893-1939)に送った手紙。1927年8月18日付、仏メッツ市のレジーナ・ホテル専用便箋を使用しています。

◇◇◇

映画監督として知名度を上げる以前、1910年代のガスティーヌは画家として成功を収めていました。

昨日午後、芸術アカデミーは芸術学校に於いて会合を開き画家を対象としたローマ賞選考を行った。栄誉に浴したのは以下の者である。
ローマ賞グランプリ:コルモン氏に師事したド・ガスティーヌ。[…]
マルコ・ド・ガスティーヌ氏は1889年生まれ。前回の仏芸術サロンで第3位となり、1909年度の芸術学校のデッサン部門で優勝、今年度は人物画の部門で準優勝を果たしている。

『十九世紀』紙1911年7月24日付

L’Académie des beaux-arts s’est réunie hier après-midi, à l’Ecole des beaux-arts pour le jugement du concours du prix de Rome (peinture). Elle a décerné les récompenses suivantes:
Grand prix de Rome, M. de Gastyne, élève de M. Cormon […].
M. Marco de Gastyne est né en 1889; il a obtenu une troisième médaille au dernier Salon des Artistes français; et à l’Ecole des beaux-arts, la grande médiaille d’esquisse en 1909, et cette année, une 2e médaille de figure (expression).

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『十九世紀』紙1911年7月24日付

人物画、風景画どちらも得意としており特に北アフリカの景色を好んで描いています。大戦中には雑誌の表紙や書籍挿画を手掛けるようになり、終戦後に絵筆を置いて映画界に参入。当時力をつけていた映画プロデューサー、ルイ・ナルパの制作した千夜一夜風奇譚『戀のスルタン』(1919年)のデザイン担当でした。

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『戀のスルタン』(1919年)より

何よりアルジェリア。南アルジェリアとサハラアトラス山脈。人生で一番贅沢な時間を過ごした場所で沢山の思い出があります。大地や地元民の荒々しさ、豊かな蜃気楼、ありとあらゆるものが前代未聞のレベルなんです。

(ラ・ラペル紙1927年6月3日付「マルコ・ド・ガスティーヌ」インタビュー)

Mais surtout l’Algérie. L’Algérie du Sud, l’Atlas saharien. C’est là que j’ai passé les heures les plus copieuses de ma vie, celles qui ont fécondé mes souvenirs. Cette région-là est inouïe, par la rudesse de son sol et de ses habitants, par sa richesse en mirages, par toutes sortes de choses.

(La Rappel, 3 juin 1927, Intimité: Marco de Gastyne)

このインタビューを読むと『戀のスルタン』に絡んだのは必然だったのかな、の気がします。自身が監督を手掛けた初期作品(1922年『インシャラー』、1923年『南の地平』、1926年『レバノンの女城主』)も同様で、何らかの形でアラブ世界と接点を持っていました。

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『レバノンの女城主』(1926年)。GPアーカイヴ(旧ゴーモン・パテ・アーカイヴ)所蔵プリント

『レバノンの女城主』からは大手パテ・ナタン社に拠点を移します。映像美、海外ロケの経験値、監督としての人望と将来性などを買われ『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』監督に抜擢。オルレアンの戦闘ではロシア流の速いモンタージュ術を組みこんだ圧倒的な表現を展開していました。

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『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』(1929年)より

30年代となり波止場のサーカスを舞台とした人情劇『麗しき悪女』(Une belle garce、1930年)、アラスカを舞台にした西部劇『彷徨える獣』(La Bête errante、1931年)でトーキーに挑戦。それまでのアフリカ指向とは大きく趣を変えているものの、エキゾチックな異世界への憧憬という点で初期作品の延長と見る事ができます。

1930年代半ば短編ドキュメンタリー監督に転向し1960年代まで撮り続けました。現在の映画史上の扱いは不当なまでに低いものの、『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』『麗しき悪女』『彷徨える獣』の3作品が9.5ミリ形式で市販されていたのは同時代の評価が高かった証です。

[IMDb]
Marco de Gastyne

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月15日

1927年 齣フィルム 『尊王攘夷』50枚 (日活オールスター特作、池田富保監督)

「池田富保 関連コレクション」より

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『尊王攘夷』はVHS〜DVDのソフト化がされており池田富保作品では比較的アクセスしやすい一つです。前半1/3程は江戸城の井伊直弼(大河内伝次郎)を中心に物語が進み、中盤は視点が切り替わり水戸藩士(尾上多見太郎、谷崎十郎、新妻四郎)の動きが追われ、最後に両者が絡みあい桜田門外の場面に収斂していきます。

駄菓子屋でくじ引きとして扱われていた「齣フィルム」を入手したのは今回が3度目ですが、手元に実際の動画データがあるパターンは初めてです。比べてみると色々興味深い発見がありました。

齣フィルム50枚の内訳は下の形になっています。

1)マーク入り:7枚(大河内版4枚、新妻版3枚)

2) 江戸城下での大河内伝次郎:10枚

3) 江戸城下での市川百之助、大河内伝次郎、川上弥生らを収めたロングショット:5枚
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4)井伊直弼との談判にやってきた尾張大納言慶勝(谷幹一)、一橋大納言慶喜(桂武男)らを収めたグループショット:2枚
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5)新妻四郎:5枚

6)大河内伝次郎と中村英雄:2枚
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7)脱藩水戸藩士と幕府からの命を伝える一団との衝突場面:4枚

8)水戸斉昭(山本嘉一):2枚
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9)廓での新妻四郎、桜木梅子、徳川良子:6枚
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10)廓での新妻四郎と酒井米子:2枚

11)廓での谷崎十郎と酒井米子:2枚

12)有村治左衛門(尾上多見太郎):3枚

雑誌を切り貼りして作った小袋には、中身が見えないようフィルムが小さな紙に包まれて入っています。この紙自体が作品の宣材になっていました。

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下の画像は井伊直弼(大河内)に蟄居を命じられた水戸斉昭(山本嘉一)が一旦穏やかに話を受けつつ、表情を変え凄みを見せる場面です。作品版と比較したところ背後のふすまの角度から別カメラ(スチル撮影用でしょうか)によるショットだと分かりました。厳密に言うと照明も変わっていて齣フィルムは天上背後からのライティングがありません。

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他の齣フィルムも同様で、対応する場面があっても人の並びが微妙に違ったり目線の向きが違ったりしており、撮影しているカメラ位置も変わっています。50枚全てをチェックした結果、実写用フィルムと完全一致する画像は一枚もありませんでした。

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映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売したりして、大正期を中心に一大ブームとなった。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018年 99巻 p.46-68)

実写用のポジから切り出された齣フィルムも現存しておりますが、「丸愛」印のくじはそういう経緯で発生したものではなく映画会社から提供のあったスチル写真用ネガを元にしたと考えることが出来ます。「齣フィルム風の何か」だった、という訳です、

ちなみにフィルム収納の小袋に転用されていた雑誌は1927年の『映画時代』でした。マキノ省三による論考「續減資の一途」、澤田正二郎と菊池寛らの鼎談に加え日活女優の座談会「日活花形女優懇談會」が掲載されていました。

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座談会に登場していたのが澤村春子、櫻木梅子、徳川良子、夏川静江に岡田嘉子。最初の3名は『尊王攘夷』にも登場。リアルタイムならではのシンクロぶりです。

[JMDb]
建国史 尊王攘夷

[IMDb]
Son’nô jôi

1927 – 9.5mm 『ベルフェゴール:ルーヴルの怪人』(Belphégor)英パテスコープ版

「9.5ミリ 劇映画」より

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ルーブル美術館に安置された古代エジプトの太陽神、アンモンの像。夜、像の周囲で怪しげな物音が聞こえた、不審に思った職員が近づいていくとそこに立っていたのは黒い異教の顔立ちをしたベルフェゴールだった。

翌朝、倒れたアンモン像の脇で倒れた職員が発見される。男は「亡霊が!」と言い残して息を引き取った。

メディアは悪党による犯罪説を追っていた。新聞記者ジャック・ベルトンの手元に届いた「この事件には手を出すな」の脅迫状。ジャックは探偵シャントコック(ルネ・ナヴァール)に話を持ちかけた。シャントコックは秘書として働いている娘のコレットと共に捜査に乗り出した。

美術館内部での怪しい動きを察知したメナルディエ警部は深夜の張りこみを行っていた。深夜に一党を逮捕しようと試みるものの、ガスによって動きを封じられ意識を失った。悪党たちが床に安置された石を移動させると現れた隠し扉、そこにはアンリ三世の遺した莫大な財宝が眠っていた…

1927年に出版された小説を元にした連続活劇。原作は『ジュデックス』等で知られるアルチュール・ベルネッド。1927年のサイレント映画版は4部構成で総長5時間に及ぶものでした。英パテスコープ社の9.5ミリ版はこの大作を25分にダイジェストしたものです。

1920年代中盤、連続活劇はすでに時代遅れになっていました。それでも熱烈な愛好家は多く『ヴィドック』(Vidocq、1923年)や『シューアン党』(Jean Chouan、1926年)等リバイバルの動きも現れていました。『ベルフェゴール』もそういった活劇復権の流れに位置づけられます。

アンリ・デフォンテーヌ監督による演出は型通りで、作品の展開も単調、活劇黄金時代の驚きはほとんどありません。映画としては成功しているとは言い難いのですが、作品の端々に現れる怪異色や秘宝の設定は決して悪くありません。

こういった要素を生かし1965年にはジュリエット・グレコらを主演にTVドラマ・シリーズが作られました。原作を一部改変しているものの、異様な緊張感に心地よいスピード感のある編集でフランスのテレビ史に残る傑作として名高い一作です。

[原題]
Belphégor

[公開年]
1927年

[IMDB]
Belphégor

[メーカー]
英パテスコープ版

[メーカー記号]
SB818

[9.5ミリ版発売年]
1936年

[フォーマット]
9.5mm 無声 400フィート2リール(25分)を800フィートリールに再マウント

1927 – 9.5mm 『メトロポリス』(フリッツ・ラング監督)英パテスコープ社5リール版

「フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]」 & 「9.5ミリ 劇映画」より

1927- Metropolis (Fritz Lang)1930s UK Pathescope 9.5mm version
1927- Metropolis (Fritz Lang) 1930s UK Pathescope 9.5mm version

先日ドイツのフィルムコレクターさんと取引させていただく機会があり、『メトロポリス』9.5ミリ版を手に入れることができました。旧所有者はヴォルフ⁼ヘルマン・オッテさん。地元の教会で『カリガリ博士』の映写会を開くなどサイレント映画の再発見に尽力されておられます。

『メトロポリス』9.5ミリ版は公開から5年も経たない1931年に市販されておりラング作品の小型フィルム化では最も古いひとつになります。同監督では他に『死滅の谷』(SB537)『ニーベルンゲン第一部/第二部』(SB729/737)『スピオーネ』(SB752)が英パテスコープ社から発売されていました。

英語でのやりとりで出てきたのが手持ちの映写機の話。ヴォルフさんの挙げていたのはウルティエ社のトリ・フィルムとリゴニー社の映写機。戦後9.5ミリ映写機で最も完成度の高い機種で、この二台持ちは達人認定できるレベルです。そんなベテランにあなたは何を使ってるんですかと聞かれ一瞬ヒヤリ。これってフレンドリーな会話に見せかけて、迂闊な映写機名をあげるとお叱りを受けるパターンですよね。ボレックスのG916他数台で回答したところ「それなら大丈夫(Your projectors are okey!)」とのこと。あはは、本当に試験でしたか。どうやらパスした模様です。

とはいえ実際に映写機にかける機会はなさそうです。良い環境で保管させていただき、いつか次世代のフィルム愛好家に引き継いでいけたら良いかなと思っています。

[タイトル]
Metropolis

[公開年]
1927年

[IMDB]
tt0017136

[メーカー]
英パテスコープ社

[カタログ番号]
SB745

[フォーマット]
9.5mm 白黒無声 120m×5 ノッチ無

澤村春子 (1901 – 1989)

「日本 [Japan]」より

sawamura-haruko-autographed-postcard-mSawamura Haruko Autographed Postcard

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

澤村春子、1927年の残暑見舞い

川島実市氏の絵葉書帳より

澤村 春子(川島実市氏の絵葉書帳より)


明治四十三年北海道に生る。大正九年上京して小山内薫の松竹キネマ研究所を卒へて処女映画『路上の靈魂』に出演、後『山暮るる』に出演して退社し田中欽之の下で『春の命』を撮影し大正十二年の末日活に入る。同社では『白痴の娘』『街の物語』『血涙記』『月形半平太』『憂国の少年』最近では『下郎』『轉婚二重』の主演があり日活主腦女優に屬するスターである。趣味は乗馬、琵琶、讀書、三味線、琴、舞踊、の各方面。

『玉麗佳集』(1928年)


本名澤村春子。明治卅四年北海道に生る。裁縫女學校卒業。役所勤めなどの後女優を志し、松竹キネマ俳優學校を經て松竹蒲田に入社。二年の後大正十二年一月より日活に出演す。主な近作は「流轉」「斷魔閃光」「白井權八」等。身長四尺九寸五分。體重十四貫五百目。趣味は三味線、踊り、琴等。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


ある日来客から「沢村春子のことが週刊誌にのっている」と教えられ、あわててその週刊誌を探しましたが、ついに手に入らずじまいになりました。たしか読売とか。それには「昔の映画スター沢村春子が苦労に苦労の末、いまでは自分の故郷近くの津軽の寒村で、うら寂しく一文菓子を子供相手に売っている」というのだそうです。[…]

想像どおり沢村さんは不幸の連続でした。要約すれば親類筋を浮草のように泊り歩き、年をとったのでどこでも使ってくれない、いまは他人の家の手伝いやせんたく物洗い程度の仕事をして、一人ぽっちの私はどうやら生きているが、この先どうなることやら、どうか笑って下さい、と結んでいます。

『髪と女優』(伊奈もと著、1961年)


映画の黎明期、無声映画のスターと云われた女優がいた。
沢村春子
女優にかけた思いを
浅虫で息絶えるまでの人生を、
三人の役者が演じる。

『驟雨激しく』 ―ある無声映画女優の生涯―
2011年6月17・18日青森県「ねぶたの家ワ・ラッセ」で
上演された舞台劇の宣伝文句より


日活が女優に本腰を入れ始めた初期から活動をしていた古参の一人で、1925年の女優揃えでも上座と思われる左端(左上位)に配置される評価を得ていました。切れ長の目でグッと堪えた悲劇調の役柄を得意とし、日活期の松之助作品ヒロイン(1925年『荒木又右衛門』池田富保監督)など20年代中盤の邦画界に功大なり。

『髪と女優』で紙数を割かれて述べられていたように、20年代後半の女優ブームの中で埋もれてしまい一時期は消息不明となっていました。晩年は青森で不遇な生活を送り80年代末にひっそりと亡くなっていますが、その後彼女の生涯を追った舞台劇が制作されています。

[JMDb]
稲田春子

[IMDb]
Haruko Sawamura

[出身地]
北海道

[誕生日]
1月20日

[データ]
8.6 × 13.7cm

1927年 『國民新聞 附録 現代俳優寫眞と名鑑』

1927-11-05 Kokumin Shinbun
« Contemporary Actors & Actresses » (Kokumin Shinbun Saturday Supplement, 5th Nov. 1927)

昭和2年(1927年)11月5日付の國民新聞の付録。

一面と四面は主に広告で占められており、日活の『砂絵呪縛』、松竹『海の勇者』(電氣館)、パラマウント社『決死隊』(邦楽座)、『通し狂言 忠臣蔵』(帝劇)などの宣伝が掲載されています。城戸四郎氏による「製作者の見た最近映畫の傾向」では剣戟、喜劇、傾向映画(「社會組織に對する問題を含んだ映畫」)と母性愛映画への言及がありました。

二・三面全体を使って俳優名鑑と成し192名を収録。二面は上から歌舞伎・新派・新劇・ハリウッド映画俳優となっていました。

三面は国内映画俳優で、松竹・日活・マキノ・帝キネ・東亞・阪妻・無所属・国外組の並びです。

俳優名鑑が掲載された日刊紙を入手したのは今回が初めてです。焼けや折れ、シミ、虫食いの跡など状態は良くないものの触るとボロボロ崩れてくるほどではなかったのが幸いでした。

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都賀 静子/靜子 (1912 – 没年不詳)

「日本 [Japan]」より

Tsuga Shizuko Autographed Postcard
Tsuga Shizuko Autographed Postcard

明治四十五年宇都宮に生る。五歳で河合武雄一派の『月魄』が初舞臺、映畫では國活を振り出しに松竹、東亞と轉々とし何れも重要な子役を勤め上げ更にマキノに移つて一躍スターとなつた。主演『戀の守備兵』『村へ來た呑氣者』『狼火』『鈴蘭の唄』等あり、最近では『愛しき彼』『消ゆる舟唄』に出演してフアンの好評を博している。まだ若いから相當に前途を嘱望されてゐるし本人も早く立派な女優になりたいと念じてゐる。好きなものは映畫、雑誌。嫌ひなものは蛇と蛙。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

昭和2年(1927年)2月23日の日付入り。裏面に「髙島千代」とあり、髙島栄一氏の親族の方が所有されていた一枚と思われます。

無声期のマキノ映画娘役として名を知られるようになりましたが1910年代後半から子役として活躍していた長いキャリアの持ち主でした。この後さらに東活~宝塚キネマへと流れていき30年代半ばに引退。戦後1960年前後に東映作品の老け役で短期間カムバックしていた記録が残っています。

[JMDb]
都賀 静子

[IMDb]
Shizuko Tsuga

[出身地]
日本

[誕生日]
5月18日

[データ]
8.5 × 13.5cm

1927 – VHS 『砂絵呪縛』(金森万象監督、月形龍之介主演)


物語は将軍綱吉の後継者争いが背景となっていて紀州派の柳沢吉保を元締めにした柳影組、水戸派間部詮房の天目党が互いに妨害工作を行っています。

間部詮房の下、副首領として天目党をまとめているのが勝浦孫之亟(月形龍之介)。詮房の娘である露路(河上君栄)と互いに憎からず思いあっています。普段は孫之亟の妹で武芸の心得のある千浪(松浦築枝)が露路に付き添い守っていたのですが、ある日柳影組に襲われ露路が拉致されてしまいます。

sukigata Ryunosuke as Katsuura Magonojo
月形龍之介(勝浦孫之亟)
Kawakami Kimie as Tsuyuji
河上君栄(露路)

間部詮房との交渉のカードに使うため、柳影組の鳥羽勘蔵(市川小文治)と義弟・森尾重四郎(武井龍三)は露路を一旦は柳影首領の妾であるお酉(鈴木澄子)に預けます。このお酉の父こそが先日、天目党に捕らわれた贋金作り師・黒阿弥(尾上松緑)であった…と話が進んでいきます。

Ichikawa Kobunji as Toba Kanzo
市川小文治(鳥羽勘蔵)
Takei Ryuzaburo as Morio Jushiro
武井龍三(森尾重四郎)
Suzuki Sumiko as Otori
鈴木澄子(お酉)
Onoe Shoroku as Kuroami
尾上松緑(黒阿弥)

『修羅八荒』と同様、『砂絵呪縛』は同一原作での各社競作となり当時の映画界を盛り上げていました。四社(マキノ・阪妻・東亞・日活)の配役対応表が下になります。

マキノ(金森万象) 阪妻(山口哲平) 東亞(後藤秋声) 日活(高橋寿康)
勝浦孫之亟 月形龍之介 草間実 雲井竜之介 河部五郎
森尾重四郎 武井龍三 阪東妻三郎 沢村勇 石井貫治
間部詮房 児島武彦 中村政太郎 御園晴峰 実川延一郎
露路 河上君栄 森静子 小坂照子 伊藤みはる
千浪 松浦築枝 木村正子 華村愛子 川上弥生
鳥羽勘蔵 市川小文治 中村吉松 瀬川路三郎 南光明
お酉 鈴木澄子 泉春子 原駒子 酒井米子
黒阿弥 尾上松緑 志賀靖郎 市川花紅 中村仙之助
神明の紋吉 中根龍太郎 中村琴之助
砂絵師藤兵衛 荒木忍 安田善一郎 横山運平 中村吉次
関仙兵衛 大国一郎 金井謹之助 団徳麿 嵐亀三郎

阪妻プロを除く三社は勝浦孫之亟を中心とした脚本で、阪妻は浪人・森尾重四郎を中心にしています。

露路役は各社が当時推していた若手女優が並びます。河上君栄さんと小坂照子さんがポジション的に重なっていた様子が伝わってきます。お酉には鈴木澄子・泉春子・原駒子・酒井米子と四社を代表する「ヴァンプ女優」が配されていました。

千浪には地味な味のある女優さんたち。松浦築枝と川上弥生は確かに同系統ですね。

悪役の副首領・鳥羽勘蔵に渋い演技派(市川小文治、中村吉松、南光明)を配して底上げを行い、ストーカー的な狂気を滲ませる砂絵師藤兵衛に個性派のベテラン(荒木忍、中村吉次)が回っています。

Sunae-shibari 07 Araki Shinobu as Tobei
荒木忍(砂絵師藤兵衛)
Nakane Ryutaro as Monkichi
中根龍太郎(神明の紋吉)

マキノ版ではぽっちゃり型男優・中根龍太郎がコミカルな役柄で光っていました。東亞版では諜報活動を行う謎めいた御庭番の仙兵衛=団徳麿が気になるところです。

[JMDb]
砂絵呪縛 第一篇砂絵呪縛 第二篇

[IMDb]
Sunae shibari: Dai-ippen, Sunae shibari: Dai-nihen

[フォーマット]
活弁:松田春翠
スタンダードサイズ、モノクロ、モノラルHi-Fi、89分

[発売元]
オールド・ニュー
日本無声映画名作館(Vol.4)

[製作]
株式会社マツダ映画社

1927年『日本映画年鑑 第三年版』(大正十五年・昭和二年版、朝日新聞社)

『日本映画年鑑 第三年版』表紙
1927 – The Japan Movie Annual 1926-1927
(Asahi Shimbun Publishing Co.)

1925年から足掛け6年に渡り公刊されていたのが朝日新聞社の『日本映画年鑑』でした。日本の無声映画期の基礎資料の一つとして2011年に復刻されています。第一号に当たる大正13-14年版は国立国会図書館のオンラインアーカイブにて閲覧可能


この時期を代表する作品として『黄金狂時代』『修羅八荒』『狂った一頁』『滅び行く民族』『最後の人』『噫無情』などが紹介されています。各国の映画界の個性がよく出た選択ではないでしょうか。

特集として興味深いのは、砂田駒子、鈴木伝明、ポーラ・ネグリの小伝です。特に砂田駒子さんは本人筆による回想録を寄稿しており、写真を多くあしらった幼少時の回想を読むことができます。


監督としては村田實、牛原虚等が取りあげられ俳優では梅村蓉子、諸口十九、岡田嘉子、スポーツ俳優の面々に紙数が割かれています。新人紹介欄に目をやると現在忘れられてしまった名前も多く、出入りの激しかった様子を伝えています。訃報欄では尾上松之助、ルドルフ・ヴァレンチノとバーバラ・ラマール三人がその功績を称えられていました。


撮影所毎のデータ集約や、巻末に付された簡潔な俳優名鑑など使い勝手の良い構成で、資料価値は高いのではないかと思われます。

昭和2年8月20日 帝国劇場『星亨』の澤田正二郎 (1892 – 1929)

「日本 [Japan]」より

澤田正二郎 昭和二年のサイン絵葉書
Sawada Shojiro 1927 Autographed Postcard

屋號俳名なし、本名同上、明治廿五年五月滋賀縣大津に生る、大正三年早稲田大學英文科卒業後坪内博士の文藝協會に入り、藝術座劇大正二年九月有樂座のモンナブンナに初舞臺後近代劇協會を後援、更に新國劇を起し今日に至る、サロメのヨカナン、闇の力のニキタなどの外新國劇としては、國定忠治、机龍之介、月形半平太、父帰るの賢一郎、嬰児殺しの小山巡査等當り役多し、定紋は抱茗荷、等級は東京七等俳優、現住所東京府下隅田村。

『大正名優鑑 「劇と映画」臨時増刊』
(国際情報社、1924年)

新国劇記録保存会によると、新国劇においては「殺陣は一瞬の動きに総力を結集する。そこには微妙な間合いと瞬時に動ける敏捷さが求められる。そこに到達するには過酷なまでの心身の鍛錬が必要となってくるのである。日頃の厳しい訓練のみが殺陣を支えているのである」

『「殺陣」という文化―チャンバラ時代劇映画を探る』
(小川順子著、世界思想社、2007年)

サインは英字で「S. Sawada」。裏に「帝劇 上方屋売店 壹階 2.8.20」のスタンプが押されています。

絵葉書の宛名面
絵葉書の宛名面

澤田氏は1925年(大正14年)に帝劇に初めて出演し『国定忠治』他を披露しています。1927年(昭和2年)に中村吉蔵(中村春雨)の戯曲『星亨』を演出・主演し、同年8月の帝劇公演で『金色夜叉』『新撰組』と併せて上演を行いました。この時に発生したサイン絵葉書です。

[JMDb]
p0262830

[IMDB]
Shojiro Sawada

[Movie Walker]

[誕生日]
5月27日

[出身]
日本(滋賀県大津市)

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

「スタヂオ日記」(『女性』誌 1927年10月号掲載)一労働者としての「女優」たち

studio-diaries-s
« My Studio Diaries » (from the magazine Josei [Woman] 1927 October issue)

大正期の邦画をよくご覧になっている方ですと小山内薫(1881-1928)の名に一度ならず触れているのではと思います。舞台での活動が本職ではありましたが、『路上の霊魂』(1921年)の制作や才能ある映画人の発掘・養成など邦画界にもひとかたならぬ功績のあった人物でした。

同氏が編集顧問として関わっていた文芸誌『女性』のある号(1927年10月号)に「スタヂオ日記」という企画が掲載されていました。当時人気のあった女優10名に寄稿を依頼し、女優業の実像を自身の手で伝えてもらおうとする内容でした。

依頼を受けたのは栗島すみ子、夏川静江、八雲恵美子、伏見直江、千早晶子、岡島艶子、柏美枝、徳川良子、酒井米子、松井千枝子の各氏。

『女性』誌 1927年10月号目次
『女性』誌 1927年10月号目次

-午後。
人はますます殖えて行く。暑さはまたぢはぢはと迫つて來る。
汗がぢつとりと流れて、顔もなにも目茶目茶になつてしまふ。
「助けて!」とほんとに云ひたくなる。

「夏の一日」 栗島 すみ子

それでもあのピカピカ光るレフを幾つもあてられると人一ばい暑がりの私は側で焚火をされてゐる程つらかった。一カツト済むと、すぐ扇風機と氷の側へ飛んで行く、飲むから汗が出る、汗が出ると猶ほ飲みたい。

「彦根行き」夏川 静江

仕方なしに、厚い冬の着物をつけ始めた。弟子達が団扇でせつせとあほいで呉れても、じりじりと汗がにぢみ出て來る。[…] あゝ今日のセツトはグラス・ステーヂ、あの百四十度もあるグラス・ステーヂへ…

「撮影所日記」松井 千枝子

暑い暑い事。南京玉の様な汗が額から背中から、ポロリポロリと落ちる氣持はだれでも、よくないと思ふ。

「私のグリンプス」 柏 美枝

職業とは言ひながら、百二十度からもあらうかと思はれるライトの前で仕事をする映畫俳優も、なかなか樂な商賣ではないとしみじみ思ふ。

「一日の仕事」 八雲 恵美子

1927年の夏は暑かったようで、灼熱のスタジオで汗だくになりながら演技を続け、仕事が終わると風呂で汗を流して息をつき、合間合間に気分転換を挟みながら会社の掲示板の予定に目をやって、明日の撮影に備えて早寝する…

何しろ砂地で馬脚が不規律に、砂の中にめり込んで、妾の身體は前後左右、四方八方に振り廻され、今にも墜落しさうなので、此處で落ちてなるものか、と鞍にシツカと 獅噛みついて、無我夢中、暑さも忘れた程。

「鳥取のロケエシヨン」伏見 直江

樂屋風呂に身體を沈めた時は、今迄の疲勞も一時に消えたよう…

「樂屋風呂の快味」酒井 米子

撮影も済んでスタジオに三時頃歸つた。そしてお湯に入つた後のすがすがしい気持に浸って明日の豫定をみて歸る。

「撮影の一日」徳川 良子

歸る路で自動車の競争をやつたら私のが一番に成つたんでうれしかった。會社に歸つたら明日の豫定が出て居る。人見組で朝七時集合。サア早く家に歸りませう。

「腹がぺこぺこ」岡島 艶子

大正期の女優とは、映画とはどうあるべきかといった抽象的な議論は一切なく、日々の経験と雑感を綴っています。雑誌の性質から考えると華やかではあっても消費されやすい「花形女優」の側面ではなく、自立して世を渡っていく「一労働者としての女優」の視点を持ちこもうとした、とも考えられます。また表現者としての思いは前面に出ていなくとも、背後にしっかり流れているのが伝わってきます。

京極はいつも乍らの澤山の人出、自分の映畫は如何かしらと不安にかられ乍ら常設館の入口まで行つて見る。大入りだ。なぜか涙ぐましい感謝の念湧く。

「自由な心」 千早 晶子

『戀は曲者』ロケ帰りの柏美枝さんが、母親への土産に羊羹やわさび漬けを買って帰っていたり、伏見直江さんが昼休憩中におかずを落として凹んでいたり、仕事もせず鎌倉でフラフラしている妹(松井潤子)の行く末を松井千枝子さんが案じていたりの貴重なエピソードも数多く含まれています。

1928 – 9.5mm 『弥次㐂多 鳥羽伏見の巻』(第二篇)池田富保監督 大河内傅次郎・河部五郎主演

「池田富保 関連コレクション」 & 「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より

1928-Yaji-kita_Toba-Fushimi
Yajikita: The Battle of Toba Fushimi
(1928, dir. Ikeda Tomiyasu)
Starring Ôkôchi Denjirô & Kawabe Gorô
9.5mm 『弥次㐂多 鳥羽伏見の巻』

池田富保監督の手によるコメディ時代劇。

尾上松之助亡き後の剣戟映画界で人気を博した河部五郎、その河部五郎をも上回る鬼人振りでスーパースターとなった大河内傅次郎を弥次さん喜多さんとして幕末に蘇らせた連作物。

普段はシリアスな顔つきで悪人をなぎ倒していく二人がざんぎり頭の一兵卒として跳ねまわっているミスマッチ感が受けたのだろうなと思います。傅次郎の顔芸の素晴らしさよ。

新妻四郎
新妻四郎(Niizuma Shirô)

見逃せないのは鬼班長・新妻四郎の存在感。恰幅の良い、強面のヒール役はチャップリンの『放浪者』や『伯爵』に出演していた名脇役エリック・キャンベルを彷彿させます。

本作はマツダ映画社所有分の断片プリント(約8分)を元にDVD化されており、9.5ミリ版はその後半4分に対応。ただし一部DVDに収められていない場面がありました。

上官の指示のもと弥次さん喜多さんは木箱の弾薬を担いで運ぼうとしています。敵軍の砲火を恐れて皆がへっぴり腰になっているのを見て鬼班長は「貴様達の臆病には底が無いツ!」と叱咤します。「俺の豪膽(ごうたん)には弾丸も除けるわい…」と嘲笑うのですが、そこに敵砲が命中、弥次喜多は「矢張り当たツた…」と目を見開きます。DVD版では鬼班長の登場場面とセリフが丸々抜けており、いきなり「矢張り当たツた…」の流れになっていました。

新妻四郎は前作「尊王の巻」でも脱獄を試みる荒くれ者役で登場、キーストン・コップ短編さながら同心との全力疾走の追いかけっこを見せていました。1910年代の欧米喜劇への愛情に溢れ、和風テイストに消化した良作だと思います。

[タイトル]
彌次喜多 鳥羽伏見の巻

[製作年]
1927年(公開は1928年)

[JMDb]
bd000620

[IMDB]
tt1320310

[メーカー]
伴野商会

[カタログ番号]
316

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 20m*2リール

1927-28『地雷火組』河部五郎 豆ブロ6種

[公開]
1927~1928年

[監督]
池田富保

[IMDb]
第一篇第二篇完結編

[JMDb]
第一篇第二篇完結編

1927 – 時代劇 『剣の舞』(東亞キネマ 明文館 映画文庫)

 

激しい乱闘だ。修理の太刀には無駄がなく、ばたりばたりと前後左右に屍を積んだが、然しややその呼吸が乱れて来た。此処ぞと敵は益々激しく斬り込み斬り込み、息もつかせぬ。

映画文庫の20冊目として出版されたのが『剣の舞』。幕末の秋田藩を舞台とし、佐幕派と攘夷派の緊張が高まる中、陰謀に巻きこまれていく池田修理(市川小文治)の活躍を描いています。三角関係のロマンスが含まれており、生野初子さんが「和製楊貴妃」と称されるヒロイン琴路を演じました。

表紙にあしらわれた « MOVIE » がモダンな雰囲気を醸し出しています。

[原作] 歌川 天外
[監督] 松室 春翠
[出演] 市川小文治 生野初子ほか

クロード・フランス Claude France (1893 – 1928)

Cloude France 1927 Autographed Postcard

先日1月3日は女優クロード・フランス(1893 – 1928)の命日でした。

1928年初頭、クロード・フランスの訃報に国内は驚きと悲しみで満たされました。死因はガスによる窒息。遺書が残されていたそうです。動機は「絶望」とされ、恋愛関係のもつれが大方の意見でした。ところが死から一ヵ月後、奇妙な噂が流れ始めます。

クロード・フランスは第一次大戦中に看護婦として働いていました。この時に知りあった貴族に見初められ結婚。ドゥ・チリィ夫人となりました。この夫が大戦中にスパイ活動に関わっており、クロード・フランスもまたマタハリの告発に重要な役割を果たしたというものです。

噂は次第に大きくなり、当局による自殺説まで広まっていきます。後に関係者より否定されていますが、突拍子もない噂にしては細部がリアルなのが不気味だったりします。

絵葉書は仏フィルマ社製。亡くなる数か月前と思われる1927年の一枚です。

[IMDB]
nm0289799

[出身]
ドイツ

[誕生日]
3月9日

[時期]
1927年

[メーカー]
Editions Filma

[サイズ]
13.4 × 8.2 cm

[入手]
2017年1月

岡田 嘉子 (1902 – 1992)

「日本 [Japan]」より

Okada Yoshiko Autographed Postcard

Okada Yoshiko 1927 Autographed Postcard


Okada Yoshiko in Tokyo no Yado (1935)
『東京の宿』(1935年)より

筑波雪子やマキノ照(輝)子と共にキネマ界三人女として浮名を流した嘉子の人氣は相變わらず大したもの。何も女優がラヴシーンを實演しやうと駆落ちしやうと騒ぐだけ野暮ではあるまいか。結局行りたくとも相手のない意氣地なしの岡ヤキフアンの餘計な心配である。

兎に角女優としての嘉子は素晴らしい演技と人気を有して居る。彼は純粹の東京ッ兒で明治三十六年四月生れといふから確か二十八歳の筈。大正七年東京女子美術學校洋畫科を卒業、幼時素人劇に出演したこともあり、同八年二月新藝術座が有樂座で開演の時初舞臺を踏む。後舞臺協會の山田一派に加はり更に同志座へも参加する。舞臺協會の提携映畫『髑髏の舞』を撮影し十四年の春日活へ復歸して『街の手品師』を主演して次で『日輪』で滿都の喜ばせいやが上に人氣を煽つた。後竹内良一と手を取つて道行と洒落れ若いフアンをあつと言はせた。罪な女ではある。現に所屬なし。

(『玉麗佳集』、1928年、中央書院)


演劇に、映畫に、彼女の經歴はかなり古い。が、その美しさは少しも衰へない。たゞ近來彼女には以前の純眞さよりも、肉感的なものが多分に備はつて來た。さうして賢明なる彼女はこの武器を利用することによつて、更に一倍の喝采を勝ち得てゐる。鋭い棘をかくして微風に揺れる眞紅の花 – それが今の彼女である。洗練されたその藝は、與へられた如何なる役でも十分こなしおほせる。が、ことに呪はしい戀に爛れた妖婦型の女性は彼女にうつてつけの役柄だ。長年舞臺で苦しんだだけに、トーキー女優としても一流だ。藝能に彼女は圓熟し切ってゐる。しかも彼女は求めてやまぬ覇氣を失はない。(松竹蒲田)

(『東西映畫 人氣花形寫眞大鑑』
1933年1月、『冨士』昭和8年新年號附録)


[JMDb]
岡田嘉子

[IMDb]
Yoshiko Okada

[出身地]
日本(広島)

[誕生日]
4月21日

ニコラ・リムスキー Nicolas Rimsky (1886 – 1942) 露

Nicolas Rimsky Autographed Postcard
Nicolas Rimsky Autographed Postcard
ロシア革命後、モジューヒンらとともに亡命しアルバトロス社を中心に活躍した俳優さん。モジューヒンとは違って喜劇を得意としており、『5日間パリ一周』(Paris en cinq jours, 1925)ではドリー・デイヴィスと、『カーニヴァルの夜』(Nuit de carnaval, 1922)ではナタリー・コヴァンコと共演しています。

エドヴィーゲ・トニさん旧蔵の一枚、「楽しかった思い出に、エドヴィーゲ・トニさんへ、パリにて(Au bon souvenir, Edvige Tonni, Paris)」のメッセージ付。日付は1927年1月ではないかと思われます。

夏川静江 (1909 – 1999)

Natsukawa Sizue

日活現代劇を代表する女優さんの一人。サイン脇に1927年の出演作『慈悲心鳥』(溝口健二監督)のタイトルが添えられており、この頃のサインではないかという気もします。

[IMDb]
nm0622406

[JMDb]
p0056390

[購入]
2015年4月11日

無名時代のジャクリーヌ・ドリュバックに宛てたアニエス・スーレ直筆サイン入り写真(1927年) Agnès Souret (1902 – 1928)

Agnes Souret 1927 Autographed Photo

1920年、フランスで初めて美人コンテストが開催された際に優勝した初代ミス・フランス。時の人となってメディアで取り上げられ映画にも主演しましたが、当初の話題以上を生み出せずショービジネスの闇に埋没し1928年に病没しています。

ジャクリーヌ・ド・リュバック様

私たちの舞台デビュー記念に
親愛をこめて

アニエス・スーレ

A Jacqueline De Lubac [sic]
En souvenir de nos débuts!
Avec Toute mon amitié

Agnès Souret / Empire-Palace 1927

晩年、パリのエンパイア・パレスに踊り子として雇われていたようで、その際に同僚となった新米ダンサーのジャクリーヌ・ドリュバック(Jacqueline Delubac 1907-1997)にメッセージ入りの写真を贈りました。

この後ドリュバックは映画デビューを果たし、サッシャ・ギトリ監督の奥さんとなって30年代を代表する女優となっていきました。2013年2月にドリュバックさんの遺品が仏イーベイに放出された際に入手した写真です。

[IMDB]
nm2067124

[誕生日]
1月21日

[出身]
フランス

[サイズ]
21.0 × 28.2cm

[コンディション]
A-